白崎秀雄の本

八月十一日(月)晴
『鈍翁・益田孝』に續き、同じく白崎秀雄の著『三渓原富太郎』讀了。また此の本の後更に白崎の『当丗畸人傳』から長尾よねと朝吹英二の項を讀む。今では余り讀まれる事の尠い書き手であらうが、文章は確りしてをり、正字正仮名を遣ふのも好感が持てる。其れにしても原三渓がとてつもなく偉い人であることを知つて驚いてゐる。偉い人だといふ認識はあつたが、どの位偉いかを知らずにゐたのである。余は滞米期間を挟んで前後十五年程を横濱市民として暮してゐるが、横濱市民にとつては格別な恩人と言つてよい。特に、余の如くに今日根岸線沿ひに住する者にとつて、櫻木町から大船に抜ける鐡道路線の計畫が元々三渓によつて為された事を知れば、大恩人として日々感謝すべきものであらう。三渓園は横濱で唯一誇るべき文化遺産であるし、嘗て蒐集せし美術品や茶道具の類を見、又横濱の経済社會に對する貢献を知れば、尊敬の念を抱かざるを得ない。白崎は三渓を藝術のパトロンであるよりは藝術家そのものであつたとして、其の作品として三渓園の造園と畫業を挙げるが、慥かに頷けるものがある。近いうちに三渓園を訪れ、改めて建築物と三渓の書畫をじつくりと見てみやうと思ふ。鈍翁、三渓と來れば、次には耳庵松永安左ェ門が近代財界茶人の雄であるといふ。お誂へ向きに白崎には『耳庵松永安左ェ門』なる著作があり、註文しやうかどうか思案中である。『自叙益田孝翁傳』や高橋箒庵の自傳『箒のあと』も届いてゐるし、白崎の『北大路魯山人』も持つてゐるので、次にどれを讀まうか迷つてゐるのである。