ホット・ショア

八月二十二日(金)晴
会社を休みリハビリテーション病院に往く。右肩や背中のマッサージを受け、可動域も少し広がり痛みも若干楽になる。肩や腕だけの問題ではなく、腰から背中も張っていて、そこからほぐす必要があるようだ。肩が痛むのでストレッチや軽い運動もしなくなったため、余計に体中の筋肉を硬くしてしまったらしい。今日から家でも教えてもらったストレッチを始めることにする。ポイントはいかに脱力するかである。
病院を出て藤が丘から田園都市線に乗って南町田で降り、目の前にあるモールの中の映画館に入る。会社をさぼって十時五十分から能年玲奈主演の映画『ホットロード』を観る。予想に反して年配の客が多い。十三時に終り、中央林間まで出て昼食を取っているうち、このまま江の島に行ってみる気になった。
小田急片瀬江ノ島まで行き、歩いて東海水浴場方面に出る。江の島の全景が見えるところまで海岸沿いを歩き、浜辺に降りる階段に腰掛けて、道路沿いの海の家で調達した生ビールを片手に海を眺める。暑い一日だったが、その時はちょうど雲が広がって直射日光はそれほど激しくなく、風は強く吹いているのでいい塩梅にさほど暑くはない。
海を眺めるのはどれくらい振りだろうか。いや、函館でも先日城ケ島でも、海自体を眺めることはあったのだが、海水浴場でビールを飲みながら何をするでもなくのんびりと海や浜辺を眺めるということに限って言えば、記憶を辿ってもここ十年くらいは少なくともなかったような気がする。まあ、海がそれほど好きではないのだから当たり前の話である。
映画に出てくる海は、今日観た映画を含め嫌いではないのだが、現実の江の島は人出こそ昔に比べれば少なく感じられるものの、相変わらず俗悪で、安っぽい若さと汚い波がいつの時代も寄せては返すことを繰り返すのみで、江の島の姿も映画の中の俯瞰と比べれば極めて陳腐なものに映る。要するに、海を眺めていても、海風の心地よさに心寛いで静かな気持ちになるとか、ビーチのはなやいだ様子に明るく楽しい気分になるといったことは全くないのである。それでも、能年がいた映画と同じ空間に自分の身を置きたいという密やかな願望がわずかながらも満たされたからだろうか、私はいつになく穏やかに江の島や浜辺の人々を眺めることができたように思う。
私は一人で砂浜に降りる石段の上に腰掛けていた。周りには水着姿のまま帰って行く連中や、水着にならずに砂浜でボール遊びに興ずる若者たち、私と同じように階段に腰掛けた若い女性のグループがいる。そんな中五十過ぎのおっさんがひとりで海を眺めながらビールを飲んでいる。楽しそうでもないが、深刻な悩みを抱えている訳でもなさそうなその様子を、もちろん誰も気にとめることはない。若い頃は奇妙な自意識過剰で、自然にそうしてひとりでいることは出来なかったかも知れないが、今は何食わぬ顔でその景色の目立たぬ一部に成り果せている。そのことも私をほんの少し満足させているし、そして何より、このオヤジが目の前の江の島辺りを舞台とした映画を観てきたばかりで、頭の中ではめまぐるしく能年玲奈のことを考えながら海を見ているとは、どうひっくり返っても誰も想像できないだろうと思えば、ちょっとしたいたずらに成功したような、愉快な気分にもなってくるのだ。
さて映画である。原作漫画は読んでいないが、能年玲奈の映画として上出来ではないかと思う。傑作ではないが能年の魅力は輝くばかりで、ピュアなかわいさは比類がない。おそらく、能年でなければ、何も知らないだけで純粋さとは別の、単に無知なだけの中学生と暴走族の、勘違い甚だしいありがちな恋物語に堕していた可能性は高い。それこそ、ヤンママで金髪の和希が、元ヤンの太目になった春山と小生意気なガキを連れて江の島海岸をビキニで歩いていそうな、あの一瞬だけが輝いていた二人の物語になってしまうところを、能年なればこそ無限のストーリーをその先に思い見られるような可能性に満ちた余韻が残るのだ。
それにしても、能年の肉の匂いの無さは驚くより他はない。それが、女性に対する興味をほぼ喪失した今の自分だからそう感じるのか、以前の私でも同じように、とはつまり世の多くの人々がそう感じられるものなのかは、俄かには断じ難いのだが、少なくとも私にとって能年玲奈という女の子は、自分の中で何か欲望と結びつくものを全く感じさせない稀有の存在であることは確かだ。彼女の魅力を存分に見られるのなら、それだけでいい。幸せになってほしいし、素晴らしい女優になってほしい。しかし、何がどうなろうと許せるというか、実の娘とか孫に近いけれど、うまく言い表わすことの難しい気持ちである。それは多分、きれいな花そのものよりも、そのきれいな花を含んだ丘や花畑や川や家もある箱庭を好む気持ちに近い。実際の花や自然なのではなく、すべてを眼下に収められる完結した世界としての箱庭への嗜好なのである。と言っても、自分でもいまいちピンと来てはいない。思い付きである。
ところで、映画の上での能年の設定は、私にはつらい過去を思い出させる。二度目の妻には先夫との娘がいて、私は丁度映画の中の鈴木さんの役割に相当していたのだ。しかも、再婚することになったのが娘の十五歳の時で、それより十年前に五歳の彼女の手を引いて、チューリップ畑ではなかったが、ボートに乗ったことがある。彼女は怖がって私の手を握り、何を勘違いしたか私のことを「パパ」と呼んだのである。彼女は表立ってグレたり、暴走族と付き合うことはしなかったけれど、母親が私と会うために不在にしたことはあったはずであり、和希と似た心の傷を負っていたことは想像できる。しかも、私の義理の娘となって八年後には、再び母親は私と離婚してしまうのである。ちょうど就職する時期に当っていたから、彼女はそれを期にひとり暮らしを始めたのだが、いずれにせよ私が彼女の思春期に傷を残したことは確かだろう。それ以来会ってはいないが、今はもう二十代の最後に差し掛かっている筈だ。幸せに暮らしてくれればいいと切に願う。
映画に戻ると、能年以外の配役も悪くなかった。春山役の登坂広臣も端正な顔つきで、凄味はないが切れはあった。宏子役の太田莉菜が、あまちゃんの水口松田龍平の奥さんというのも何かいい感じ。りょうと麻生久美子を足して二で割ったような魅力のある女優で、さすがは水口である。ただ、和希の親友えり役は、この手の映画にありがちな主役を引き立てるだけの存在なのはいただけない。ヒロインの親友でヒロインと同じくらい魅力的だった私の知る唯一の例外が『早春物語』における仙道敦子である。