マイノリティ

八月二十日(水)
右腕の可動域が極端に狭まり、いずれにせよ動かすと肩が痛むので左手で何事もするようになると、如何に世の中は右手優位に成り立っているかを痛感するはめになる。マウスはほんの一例だが、ズボンのチャックから駅の自動改札、エレベーターのボタン、鋏や電話の受話器に到るまで、右利きの人間はそれと気づかぬものの、世の中は左利きに相応の不便を強いるものに満ち溢れていると言っても過言ではない。反主流、反体制という意味で、常々自分をマイノリティだと認識してきたのだが、それも大いに疑わしいことに気付かされた。マジョリティは必ずしも人数の多さによるのではなく、歴史的社会的に形成される。余りにも圧倒的なために、むしろ自然なことのように思われてしまうマジョリティの制度や専制は、実は気づかないだけで至るところにあるのだ。それに否応なく気づかされるのは、自分をマイノリティの身に置いた者だけであろう。左手のマイノリティ性から、社会的弱者として階層化された、もっともマイノリティ度の高い人々の、日々の生活におけるストレスに思いを致した。そしてふと、現代日本で、例えば主婦でまだ小さな子どもがいながら働いていて、五十過ぎで癌の治療中で、しかも中間管理職で左利きの人がいるのだろうかと思う。というより、それが想像を絶するストレスに満ちた生活ではないかと、勝手な予想をしてしまう。想像を逆に逞しくすると、女性管理職の中では、左利きの比率が通常のそれよりかなり低いのではないかという気がしてくる。或は、女性の社長や起業家の中には逆に左利きが有意に多いとか。誰か調べてみると面白いと思う。少なくとも、私の会社の数少ない女性管理職の中には、私の知る限り左利きはいない。もっとも、調香師という職業に限って言えば、昔から一般の職業より左利きが多いことが知られていて、それは私も実感としてある。左利きの女性パフューマ‐も知っている。もっとも、パフューマ―という職種自体が、決してマジョリティにはなり得ぬ性質のものではあるのだが。