史傳

十月三十日(木)陰
此の日鷗外全集の『伊澤蘭軒』届き早速讀み始む。『木村蒹葭堂のサロン』に續き大部の書冊なるも、同書及び現在通勤時に讀み進めてゐる『頼山陽とその時代』に於いて馴染の人名が早くも散見して舊知の人々と再會してゐるやうな懐かしさがある。目下、寛政期から化政期に掛けての江戸時代の文人や儒醫といつたものに最も興味が向いてゐる。併せて歴史學による當時の職制や身分制に關する最近の成果にも触れてゐるので、圖らずも時代を少しは立體的に捉へられてゐるやうだ。一方で、草書の崩し字、古文書の解讀の為の勉強も續けてゐて、此方はまだ道のりは遠いけれども、何時の日か津山藩の江戸日記や町奉行日記を讀み得るやうになれば、井岡道安に關する探究も格段に深まるに違ひない。其の頃には道安の殘した香道の傳書も讀み解けてゐるだらうから、公的な記録と香りの世界に遊ぶ内面の世界を兩つながら窺ひ知る手立てが揃ふ事にならう。
鷗外の史傳なるものは、若い頃『澁江抽齋』を讀んだ丈で、其れも面白かつたといふ記憶があるに過ぎないので此方も再讀すべきであらうが、まずは蘭軒に食指が動いた。抽齋と『北条霞亭』は學生の頃岩波の新書版箱入りの「鷗外選集」で出てゐたのを買つて持つてゐるが、蘭軒は架蔵してゐなかつたので、今囘アマゾンにて古本を求め千弐百五拾七圓にて手に入れたものである。蘭軒は道安と同じく儒醫であるが、世代的には道安の息櫻仙とほぼ重なる。北条霞亭も同世代、従つて頼山陽とも同じ時代を生きたことになる。彼等に對して道安や木村蒹葭堂は一世代前に當る。逆に澁江抽齋は蘭軒の弟子であるから、一世代後といふことになる。
ところで鷗外の史傳に關しては岩波から二十一世紀になつて「鷗外歴史文學集」といふものが刊行せられてゐて註釈は可也詳しいらしいのであるが、何せ蘭軒だけでも五百頁程の書冊で四巻となり、其の上古本の値段も未だ下がつてゐないので、古いが造本のしつかりしてゐる岩波の鷗外全集一巻本にしたのである。いずれにせよ持ち歩ける重さではないから、歴史文學集本は圖書館で借りて参考書として併せて讀むのも良いかも知れない。登場する文人や學者は此れまでの讀書で大方知つてゐるだらうから、余り詳しい註釈も煩わしいので、未知の人名や事柄に就き参照すれば為にならう。