足萎

十一月五日(水)陰
『伊澤蘭軒』を讀む事日課の如し。その七十一に至る。蘭軒三十有余歳にして足疾を得、後に兩脚全く廢するに至るを知る。余は肩疾に苦しみ筆硯や竹音を稍遠避けざるを得ず、専ら讀書に勤しむ日々であるが、脚は到つて頑健である。歩行の困難な蘭軒の悲痛を思へば轉た悄然、肩痛による不如意も忍從すべきを知る。
其にしても蘭軒と『頼山陽とその時代』を併讀してゐると、菅茶山を始めとして兩書に共通して登場する人物が多く、何処かステレオ放送でも聞いてゐるやうな江戸の奥深い空間を感じる事が出來る。また、頼春水、蠣崎波響といつた、『木村蒹葭堂のサロン』で頻出した名も目にして、舊知の人々と思ひ掛けぬ處で再會するかの如き喜びを感ずる。自分も江戸の文人の端くれになつたかのやうな錯覚すら覚える。まあ、其れには漢文と儒學の教養が決定的に不足してゐるのではあるが。
荷風が親しみ、中村真一郎が辛うじて解し得た江戸漢詩文を味はふ事の出來る「作家」なる者が現代に存するのであらうか。もしゐるのであれば遅まきながら師事してみたいものだと思ふのである。