再び通信

十月二十日(月)余の個人誌からまづ一囘分。

津山藩医井岡道安とその時代 ― その一 》
一、 はじめに

 これからこの誌上でわたしが書かうとしてゐる事がらは、内容から考へて、今までわたしが書いて來た多くの話題以上に、讀み手の興味を引く可能性の低いものであることを豫め告げておきたい。無論、無料で配信してゐるのだから默つて讀めと云ふ氣持ちはなく、自分の興味にのみ從つて書くことに讀者をつきあはせてしまふ申し譯なさを感じて、最初に詫びておきたかつたのである。しかも、通常は一號分の誌面に合はせて書く量をしぼりこむのに對し、これから暫くはさうした制約なしに、どこまで續くか自分でもわからずに書いていかうと云ふのである。そのため、いつもは自制して削除する駄辯や道草のたぐひも排さず、また中心となるテーマを理解するために必要な豫備智識や基礎的な情報の提供も叮嚀にしていくつもりでゐる。と言ふより、多くのことが自分にとつても未知である場合が殆どなので、その際に調べたことを、ずつと前から知つてゐたやうなふりをせずに、初めて知つた驚きや喜びとともに書き記していきたいと思ふのである。
 かうした斷はりを一応入れた上で、これからわたしが書かうとする主題を明らかにしてみるとすれば、一言で云へば井岡道安と云ふ名のひとりの醫者をめぐる考究である。おそらく、十八世紀後半の江戸期を生きた、現在は岡山縣に屬する津山藩江戸藩邸で藩醫を勤めた道安と云ふ人の名を今まで目にしたことのある人はあるまいと思ふ。わたし自身、ごく最近あるきつかけで江戸期の古文書に接するまではその名を耳にしたことはない。インターネット上や各種人名事典を見ても、本人に就いてのまとまつた情報は殆どなく、斷片を切りつないでやつとおぼろげにその人物像が浮かび上がつて來たに過ぎない、歴史上無名と言つてもよい人物であるから、知らなくて當たり前である。
 そんな人物に就いて、ほんの輕い氣持ちで調べはじめたところ、思ひがけずその人の周邊に當時の世相や文化的な樣相をかいま見るに足る面白い人間關係が浮かびあがつてきた。さうして芋づる式にわかつてきた事がらとともに、さうした情報の入手經路や出典との邂逅のいきさつまで、自分自身への備忘録の意味を込めて縷々書き綴つていく氣になつたと云ふことなのである。そこには、道安その人への興味そのものとはおのづから別の動機がある。
 ひとつには、江戸中期から後期にかけての、儒者や醫者、武士や大名にして、漢詩人や文人と呼ばれる人々や、學問や文學、美術を好んだ町人階級の人々たちが織りなした、知と趣味のネットワークへの興味がある。これは主に、大室幹雄前田愛芳賀徹山口昌男、更には中村眞一郎と云つた人たちの著作に觸れることで増幅されて來たものであり、それらの書物によつてわたしは自分の知的好奇心の長い迷走と逸脱の果てに、還るべき場所に戻り着いたかのやうな、目の前の視界の開けた感覺と、ある種の安堵とを覺えるに至つた。
 そもそも江戸の文人趣味と云ふものが、今にして思へばその本質をどこまで理解してゐたか甚だあやしいことながら、わたしが大學卒業前後に、と言ふことは社會や俗事にさほど染まることの少ない、相對的にではあれ單純に知的な興味だけを持ち得たであらう時期に、もつとも關心を寄せた事がらであつた。入社したての社内報に新入社員紹介の欄があり、アンケートの形で囘答を求められたわたしは、趣味は何かと聞かれて「江戸文人趣味」と書き込んだりもした。
 その後、まさに世事俗事の眞つただ中に投げ込まれたわたしは、暫くの間「文人」的なものからはるかに離れた生活を續けて來たのだが、幸か不幸か五年ほど前に隱居の如き身となつて、好きな事を好きなやうにしようと決めた際に身近に殘つたものが、書であり尺八であり、山水畫や茶や香であつた。その時今さらながらに、文人こそが自分の本來の憧憬であつたやうにも思はれて來た。すなはち、詩・書・畫の文雅に遊び、和漢の古典に親しみ、更には茶・花・香の三道にも通じた文人のすがたを理想視する傾向がわたしの中にもともとあつたやうに思はれるのである。
 さうした自分本來の好みへの囘歸の中で、おのづから選びとつて讀むやうになつたものが、先に舉げた書き手たちの、主に江戸後期の文人や畫人、學者たちに就いての著作である。ところが、良質の書物に出會ふことの必然的な結果として、わたしの關心は文人の枠を超えて江戸時代の智識人の思想や生き方、交友關係やそこから生まれた詩文、更には幕藩體制の弛緩に伴ふ、維新を用意したと思はれる社會や文化、政治體制の地殼變動と云つたものへと擴大することになつた。言つてみれば、近代以降の日本および日本人を理解するための礎として、江戸時代を總體として理解したいと云ふ希望を抱き始めたのである。それはおそらく、身の程を知らぬ野心に過ぎないのだらうが、最近の讀書によつて得られた江戸時代に關する智識は、高校日本史的な常識に對する根本的な訂正を求めるものばかりであつたために、江戸を正しく知りたいと云ふ氣持ちは更に強まり、さしあたり一番興味のある文人を軸に江戸の深層に少しでも分け入りたいと云ふ希望を抱くやうになつてゐた。そんな時はからずもこの井岡道安と云ふ儒醫が文人の圈内にきはめて近い存在であることがわかつてきたために、その正體やネットワークの樣相を解明していくことへの興味が高まつたと云ふことになるだらう。
 長大になることが明らかなこの書きものを始めるふたつめの動機は、過去に生きた一人の人間の姿を、史料や文獻をたよりに明らかにしてゆくことの樂しさと云ふことにならうか。既にわたしは、高砂香料創業者である甲斐莊楠香に就いて、會社の所有するさまざまな資料文獻を閲覽する機會を與へられて、その生ひたちからヨーロッパ遊學を經て創業に到る過程を跡づける文章を綴りつつある。會社の發行するPR誌と云ふ制約のある場所ではあるが、その執筆に際して殘された手記やノート、葉書などをもとに事實關係を組み立てつつ、自分の想像を膨らませて記述してゆくことの面白さを知るに至つた。この、一般には閲覽が困難な資料を詳細に調べては新たに得られる知見をもとに文章を組み立てていくことの愉樂を、井岡道安をめぐつても同樣に味はひたいと云ふのが、僞らざるわたしの動機となつてゐるのである。
 とは言へ、これから書かうとしてゐるのは、甲斐莊楠香に就いて書いてゐるものと同じく、井岡道安に關する學問的な意味での歴史學的な研究や考察ではなく、言葉の正しい意味に於るエッセーと呼ぶべきものである。かうした執筆態度に、ヒントと勵ましを與へてくれたのが、中村眞一郎の『木村蒹葭堂のサロン』であつた。脇道に逸れるが、これから先大いに逸脱や脱線をするつもりで始めた以上、その邊の事情に就いてもきちんと説明していくことにしよう。
 さて、中村眞一郎の名は勿論若いころから知つてはゐたが、讀んだのは『王朝文學論』と建禮門院右京大夫に就いての著作くらゐなもので、古典文學や西洋の現代文學にも通じた博識の作家と云ふくらゐの認識しかなかつた。その同じ人に、頼山陽や蠣嵜波響、そして木村蒹葭堂に就いての、きはめて奧深い著作のあることを知つたのは、不覺にもごく最近のことである。大室幹雄の『月瀬幻影』の中に言及されてゐるのを讀んで、その慧眼と幅廣い教養を改めて知るに至つたのである。
 それにしても今囘『木村蒹葭堂のサロン』を讀み始めて驚いたことがある。妙な言ひ方になつてしまふが、それがまぎれもなく文學者、と云ふ言ひ方では範圍が廣すぎて不明確であるならば、作家あるいは小説家の手になるものであることが、臆面もなく表出されてゐたからである。たとへば、この本の冒頭は「私は少年時代から精神的孤立に苦しんでゐた」で始まる。こんな、生なましい文章を久しぶりに讀んだせゐもあるのだらうが、わたしは一寸たぢろいだ。その後も思春期以降の所謂精神遍歴が囘想され、作家となつてからも幾多の精神的危機を經て江戸が視野に入り、漢詩や繪畫を通じて頼山陽や蠣嵜波響に出會ひ、更に木村蒹葭堂に行き着くまで、延々十一頁を費やしてくはしい説明がなされる。
 文章は明解で、蒹葭堂に關心を寄せるまでの興味や問題意識の變遷も、十分に理解し得るし共感できるものではある。ただ、わたし自身がここ暫く、大學教授であることが肩書きの最初にくるやうな、學者と呼ばれる人々によつて書かれた專門的な學術書か、そこから一歩足を踏み下ろした一般向けの書物を讀みなれてゐたために、書き手の私的な苦惱や懊惱と云つたものがここまで何のためらひもなく現われ出てゐることに面食らつたのである。しかも、その冒頭の中に、著者が日本の「私小説」的なものに對する違和感を言明してゐるのに出會つて、思はず、それならこれは「私評論」ではないのかと突つ込みたくもなつたのである。
 しかし、讀み進めるにしたがつて、さうした「私的」な部分の露出は氣にならなくなり、むしろ「私」を強く感じさせる文章で綴られていく蒹葭堂をめぐる話題が、實に心地よいあたたかみを感じさせるものとして讀めるやうになつていつた。中村自身、その著作は紀要に載せるやうな學術論文ではなく「文學的な營み」だと言ひ切つてゐるし、實際生身の著者のすがたはその後の敍述の中では冒頭ほどには目立たないものになつていく。
そして『木村蒹葭堂のサロン』を書く目的に就いて語つた一文を讀んだ時、わたしはハタと膝を打つた。それこそが自分のやりたいと思つてゐたことだからである。
 中村は書く。
 「十八世紀大阪の一商人の傳記研究に少しでも筋を附けてみたいと云ふ當然の欲求と同時に、私  を含めて現代の世間一般の、この人物への豫備智識の殆ど皆無の状態から一歩づつその本體に接近して行く手續きの面白さを讀者に味はつてもらひたいと云ふ意図もある。」
 手續きの面白さを書くことが執筆の目的として許されるのであれば、專門的學問的な智識があるわけでもないわたしのやうな人間が、ひとりの一般人として智識を深めていく過程を綴ることも、何か突飛なものと云ふわけではなくなる。更に、或程度實證的な調査研究の節度を守りさへすれば、私的な思ひや感懐を述べたり、自らの精神遍歴を踏まえた判斷や評價を下し、想像力を働かせて書くことも、「文學的な營み」として許容範圍と云ふことにもなるだらう。
 もつとも、冷靜に考へてみれば、『木村蒹葭堂のサロン』の場合、世間的に名のある作家が、一部には名のよく知られた人物を對象にそれをしたからこそ讀者の興味をひくのであつて、今囘のやうに無名の人間が、これまた世間的にはまつたく忘れ去られてゐる人物に就いて同じことをしても、一般の關心を呼ぶことがないのは明らかである。ひと昔前なら好事家の自費出版としてほそぼそと世に問ふのが關の山で、結局は誰にも讀まれることなく終る可能性の高い「試み(=エッセー)」である。
 幸ひなことに現在ではネットやメールの發達により、執筆に對する報酬もないかはりに負擔もなく、誰もがたやすく發表の場をまうけることができる。その場として、わたしにはこの通信がある。素性の明らかで良質な讀者を獲得してゐる僥倖にも恵まれ、自分としても今までにない長大な企圖を描き得たのも、さうした發表の場を持つてゐるからに他ならない。
 とは言へ、冒頭にも述べたとほり、これから書くことが讀者の大半の興味を引くとも思へないので多少なりとも逡巡はあるのだが、長すぎる序文はこれくらゐで切り上げることにして、覺悟を決めて書きすすめていくことにしたい。

二、井岡道安との出會ひ

そこでまづ、わたしが井岡道安の名に初めて出會ふいきさつから始めることにしやう。
 今年(二〇一四)の六月、會社が所有する香木や香道の道具に就いて詳しく調べる機會があつた。會社は、香料業界の盟主であるとの自負からか、香りや香料に關する文物をたくさん保有してゐる。古代エジプトの香油壺から近代の香水瓶の數々、香爐や香道具、更に香りに關する書籍や繪畫まで、「高砂コレクション」と總稱される、かなりの數になるコレクションである。一部は本社受附脇に設けられた展示室に飾られることもあるが、偶に外部の博物館や美術館の企劃展に貸し出す他は、倉庫に眠つた儘殆どその存在は忘れられてゐる。中に香木もたくさん所藏されてゐることはかねてから聞いてゐたが、必ずしも全容は明らかでなかつた。それが偶々最近になつて詳細な目録をつくる話が持ちあがつて、その任にわたしが當たることになつたのである。
 全部で一三三種類の小さな香包みに分けられた香木を、包み紙に記された銘を讀みとり、中の香木片の重さを量つていちいち記録すると云ふ地道な作業をのべ三日ほど續けた。その結果水戸徳川家傳來と紀州徳川家傳來と記された香木のセットは、驚くべき「お寶」であることが明らかになつた。所謂「名香」の一大コレクションだつたのである。のみならず、香の銘に就いて今まで知られてゐないやうな思ひがけぬ發見もあつて、中々興味深いのであるが、それに就いてはまた稿をあらためて書くことにしたい。
 香木と聞香の道具類の調査を終へた後に出てきたのが、香道關聯の古書籍や古文書を收める三つの箱であつた。漆塗りの立派な文庫は御家流、桑の簡素な箱ふたつが志野流である。所謂秘傳書を中心とした冩本・版本、そして免状の卷物からなり、それぞれ傳書の宛名から元の所有者が推定できる。
 御家流の方は井上哉子と云ふ人で、昭和十年前後に都筑幸哉から受けた免状が殘されてゐる。現代に近い人だつたこともあり、また所屬してゐた桂雪會と云ふ御家流の會がホームページを開設してゐたこともあつて、ネットの檢索によりプロフイールを比較的たやすく見つけ出すことができた。戰後も桂雪會で活躍してゐたやうで、同會ホームページによれば、「古き良き時代の御家流香人の雰圍氣を保ち、筋を通し嚴しさも兼ね備へる一方、暖かな思ひ遣りに溢れる優雅な香人」だつたと云ふ。日本香道協會が昭和三九年から六〇年にかけて發行してゐた『香越理(かをり)』と云ふ機關誌にも何度か寄稿してゐて、御家流の中でも重鎭のひとりだつたと思はれるが、平成六年に亡くなつてゐる。この大きめな文庫ひと箱分殘された傳書や免状の入手經路や取得の時期に就いては何も傳はつてゐないが、したがつて平成六年以降と云ふことにならう。
 一方の志野流の方はと言へば、寛政から文化年間に發給された傳書が中心で、一八世紀末から一九世紀初頭にかけての江戸時代の古文書類と云ふことになる。傳書や免状の宛て名は藤井成子と云ふ女性で、その免状を與へた人が井岡道安だつたのである。この時點で道安が津山藩の藩醫であつたことは勿論判明してゐない。免状を出せる、自身皆傳者であるはずの香道宗匠だらうとの推測がせいぜいである。
 御家流の時と同樣、まづはインターネットで藤井成子を檢索してみたが、現代の同姓同名は多數存在するやうだが、江戸時代に生きた藤井成子の手掛かりは見つからなかつた。當初は香道に關する書籍類が香木と一緒に贖入された可能性も考へられたため、水戸家や紀州家の姫君や正室、側室を調べてみたがそれらしき名は發見できなかつた。
 そこで目先をかへて井岡道安を檢索してみた。井岡で調べるとボクサー關聯の莫大な件數がヒットするが、井岡道安にするとわづか四件で、そのうち確かなことがわかりさうなのは井岡道安がキーワードとして登録された、井岡冽と云ふ人に關する文獻の情報のみであつた。
 唯一の頼りであるその文獻とは、津山市にある津山洋學資料館發行の研究誌『一滴』第二十號に載つた、小宮佐知子氏による「井岡冽の人物像」と云ふ論文である。幸ひ横濱市立圖書館の藏書を檢索すると所藏してゐたので早速ネットで豫約し、近くの圖書館に廻送されたものを取りに行つた。讀んでみると井岡冽は道安の息子で、小野蘭山に學んだ本草學者であつた。道安に就いても多少觸れてゐて、津山藩の藩醫であつた井岡友仙の養子に入つて藩醫を繼いだ人であると云ふ。生年は不明だが沒年は文化二年(一八〇五)とあり、殘された免状の最後のものが享和三年(一八〇三)なので矛盾はない。しかも、傳書の署名に道安の他に元世とあつたものが、道安の名として記されてゐることから、この井岡道安が藤井成子に免状を與へた者と同一人物と考へて間違ひない。
 案外あつさりと特定できてしまつたものの、この事實からさまざまな疑問や興味が生まれてくる。まづ、醫師である道安が香道の皆傳者であることが、當時にあつてはさほど珍しいことではなかつたのか否か。それとも關聯して、道安はそもそもどこで誰に香道の傳授を受けたかと云ふ興味もわく。ここで、わたしは江戸期の藩醫と云ふものの地位や制度に就いて何も知らないことや、香道が當時どの程度廣まつてゐたかと云つたことに就いての智識がないことに氣づかされる。また、仕へてゐた津山藩、すなはち松平越後守の家中に於る、香道を始めとした文化的な環境も知りたくなるし、そこから當然蘭學や洋學の先驅者を輩出した津山と云ふ町への興味にもつながつていく。
 實は、井岡道安とは全く關係のないところからわたしは長らく津山と云ふ場所に關心を寄せてゐた。それは、この通信の讀者なら承知のことと思ふが、甲斐莊楠香の京都帝國大學時代の恩師久原躬弦の故郷であることによる。久原躬弦は貢進生から東大の前身である大學南校に進み、最終的には東大理學部化學科の第一囘卒業生となつた人で、日本化學會の初代會長にもなつた化學者である。その久原家も津山藩の藩醫であつたし、箕作家や宇田川家も藩醫である。明治以降に多くの優れた學者を出した箕作家には前から興味があり、幕末に三代にわたつて有名な蘭學者を出した宇田川家も氣になる存在である。そんな有名どころにまじつて井岡家と云ふものがあり、世間的にはそれら三家に比して無名ながら、井岡道安は香道宗匠もしてゐたと云ふことになれば、おのづと關心は高くなる。
 更に、道安に關する初期の調査に於てわたしの關心を決定づけたのは、里村家に殘されたと思はれる「連歌人名録」に道安の名を見出したことである。里村家は、徳川幕府連歌師を勤めた家で、その人名録には堂上貴族や地下の哥人も含めさまざまな「有名人」が登場する。たとへば、香川景樹や北村季吟平田篤胤、更に上冷泉家や六角堂池坊家などの名が見える。成島柳北の祖父邦之助の名前もある。それらの名に竝んで「元世 松平越後守樣儒醫井岡道安」とあるのである。これにより道安は醫師のみならず儒學者であつたことが知れる。醫者であり儒學も講じる、連歌香道もたしなむと云ふ智識人、教養人としてのすがたが浮かびあがつてくる。
 連歌と聞香とは、三條西實隆や飯尾宗祇を引きあひに出すまでもなく密接な關係を持つものであつたが、江戸も後期にさしかかる時期に連歌香道にも秀でた儒醫がゐたのである。大室幹雄中村眞一郎の本に出てくる文人と云ふのは、漢詩を中心として書や畫をよくし、あるいは狂歌俳諧あたりの文藝をこととするのが殆どである。成島家のやうに、儒家でありながら和歌も詠む者も少なくはないが、逆に歌學を重視する國學系の人たちは唐ぶりを毛嫌ひすることから漢詩を遠ざける者も少なくなく、さうした歌人は江戸の「文人」と云ふ範疇からは微妙にずれる。人名録にあつた平田篤胤や香川景樹を考へればそれもうなづけるだらう。と言ふことは、儒者である以上漢詩ぐらゐは詠んでゐた可能性の高い井岡道安と云ふ人は、連歌のみならず香道もたしなむことによつて、當時の文人の中にあつても、文化的な幅の廣い人物と云ふことになるのである。
 當時の醫師や儒者の通例から考へて、道安がそれなりに幅廣いネットワークや交友關係を築いてゐたであらうことも豫想される。醫師であれば漢方であれ蘭方であれ、幕府や藩の醫師養成所や私塾に入つて師に就いて學ぶのが常道であつたし、別に本草學の師に就いて學ぶことも多かつた。師弟の結びつきは勿論、同じ學統に屬する門弟同士の關係も緊密であつた。儒學にしても同樣であり、そこに漢詩文のやりとりが加はれば人脈は更に廣がる。ましてや、香道連歌では師匠や同門、流派内の交流は、身分の違ひを越えて密なものがあつたと推測できるので、單なる交友のみならず、道流の皆傳者として多くの弟子を抱へてゐた可能性もある。
 その邊の交友關係に就いては追々調べていくことにして、現時點までにわかつた井岡道安に關する文獻にあらはれた基本的な情報を、主に前述の小宮佐知子氏の「井岡冽の人物像」に依つて、ここでまとめておくことにしたい。
 井岡道安は豐前の出身で元の名を中島三折と云ふ。江戸で醫學を學んでゐたところ、津山藩醫井岡友仙の目にとまり養子となつた。井岡家は江戸詰の醫官ながら三百石の高祿を食み、代々道貞を名乘つたので、道安も妻を娶つた後道貞を襲名した。道安は晩年に名のつた號であるらしい。他に元世の名があることは既にふれた。子に冽(きよし)、號櫻仙があり、道安沒後は津山藩の藩醫と侍講を引き繼いだ。有名な本草學者小野蘭山の弟子となり、著作もあつて世間的には道安よりも名が知られてゐた。天保六年(一八三五)に刊行された『當世名家評判記』の「本草家之部」に井岡道貞として舉げられてゐる。
 道安の生年は不詳だが、沒年は既に述べたとほり文化二年(一八〇五)である。したがつて、道安が仕へた藩主は寛政六年(一七九四)に沒した津山松平家五代康哉(やすちか)と、文化二年に早逝した六代康乂(やすはる)の二代と云ふことになる。
 ところで、五代康哉の側室に「井岡氏女」とあり、年代的に道安の娘である可能性はあるが、今のところ確證はない。ちなみに同じく康哉の側室に「藤井氏女」もあり、これが香道傳書の持ち主「藤井成子」ではないかとも思ふのだが、その邊の謎解きは後々の樂しみにとつておきたい。
 また、津山洋學資料館のホームページ上にある「洋學博覽漫筆」なるコーナーに掲載された「津山で行はれた開臟」と云ふ文章から、藩醫としての道安の動向をわづかに知ることができる。これは、寛政四年(一七九二)に宇田川玄隨が津山で初めて行つた解剖に就いて觸れたもので、その際參加見聞を願ひ出た藩醫五人のうちに道安の名が見える。本文中では井岡洞安となつてゐるが、江戸時代は名前の表記、特に號などは同音異字を當てることも多く、また誤記の可能性も高いので、道安と見て間違ひはあるまい。杉田玄白による有名な小塚原の腑分けから二十一年後にあたるこの年に、江戸でも蘭學の最尖端を行く玄隨の行ふ解剖に無關心ではゐられなかつた道安のすがたがうかがへる。
 他に文獻上で名前が見えるものとしては『新訂寛政重修諸家譜』の中に、旗本坂部正武の後妻に「井岡道安の娘」とあり、年代的には合ふので間違ひないと思ふ。旗本の後妻に娘を入れるくらゐだから、藩主の側室に娘を送りこんでも不自然ではないことになる。ちなみに、將軍家でも六代家宣の時に奧醫師太田宗庵の娘が側室として入つてゐて、諸藩でも似たやうな事例はあつたのだらうと思はれる。
 もうひとつ、文獻上で道安の名前が出てくるものとして『吉備群書集成』に收められた『墮涙口碑』がある。同書は康哉、康乂二代の藩主の言行録だが、道安は「生まれつき正直にて飾なきもの」であるとして、權勢を誇つた側室に對して贅澤を戒めるべく憚るところなく直言したので、康哉候も信任厚く常に側近くに召してゐたと語られてゐる。正直はともかく、「飾りなきもの」が香道をたしなむだらうかと云ふ一抹の不安は覺えるものの、藩主から信頼を寄せられてゐたことがうかがはれる。
 ところが、同じ書の康乂時代のエピソードでは少々違つた面が語られる。それによると、領内の加茂村と云ふところで、六本足の牛が生まれたとの報告が入つた際、井岡道貞すなはち道安が康乂候の側にあつて、「物産吟味」のためその牛を城に取り寄せてはいかがかと勸めたと云ふ。康乂候はこれを是としたが、すぐさま同じく藩醫であつた松田樹軒と云ふ人が、六本足の牛などと云ふものは片輪であつて、「町辻のみせもの」でしかないから取り寄せるのをやめるやう進言したところ、それを聞きいれて牛見物は中止になつたと云ふ。この康乂候はわづか二十歳で沒してをり、その話がいくつの時かは不明だが、臣下の諫言を容れた聰明さを示すエピソードの中で、道安は一本取られた格好である。
 現在のところ、これらに先に引いた里村家の人名録を加へたものが、文獻上にあらはれた井岡道安に關する情報のすべてである。この先調査を進めるなかで、新たな文獻や資料にめぐりあふ可能性はゼロではないが、それを待つ暇はない。今はむしろ、殘された香道關係の文書に立ち返つて新たな情報を得る努力を續けたいと思ふ。その前提として、志野流の香道と云ふものや、藩醫と云ふ職業、更に津山藩の來歴と實情に就いて詳しく知ることから始めたいと思ふ。それが道安と云ふ人物を理解するための外濠として不可缺な事がらと思はれるからである。