その2

十月二十一日(火)雨後陰
津山藩医井岡道安とその時代 ― その一の二 》

二、井岡道安との出会い

 そこでまず、わたしが井岡道安の名に初めて出会ういきさつから始めることにしよう。
 今年(二〇一四)の六月、会社が所有する香木や香道の道具について詳しく調べる機会があった。会社は、香料業界の盟主であるとの自負からか、香りや香料に関する文物をたくさん保有している。古代エジプトの香油壺から近代の香水瓶の数々、香炉や香道具、さらに香りに関する書籍や絵画まで、「高砂コレクション」と総称される、かなりの数になるコレクションである。一部は本社受付脇に設けられた展示室に飾られることもあるが、たまに外部の博物館や美術館の企画展に貸し出す他は、倉庫に眠ったままほとんどその存在は忘れられている。中に香木もたくさん所蔵されていることはかねてから聞いていたが、必ずしも全容は明らかでなかった。それがたまたま最近になって詳細な目録をつくる話が持ちあがって、その任にわたしが当たることになったのである。
全部で一三三種類の小さな香包みに分けられた香木を、包み紙に記された銘を読みとり、中の香木片の重さを量っていちいち記録するという地道な作業をのべ三日ほど続けた。その結果水戸徳川家伝来と紀州徳川家伝来と記された香木のセットは、驚くべき「お宝」であることが明らかになった。いわゆる「名香」の一大コレクションだったのである。のみならず、香の銘について今まで知られていないような思いがけぬ発見もあって、中々興味深いのであるが、それについてはまた稿をあらためて書くことにしたい。
 香木と聞香の道具類の調査を終えた後に出てきたのが、香道関連の古書籍や古文書を収める三つの箱であった。漆塗りの立派な文庫は御家流、桑の簡素な箱ふたつが志野流である。いわゆる伝書を中心とした写本・版本、そして免状の巻物からなり、それぞれ伝書の宛名から元の所有者が推定できる。
御家流の方は井上哉子という人で、昭和十年前後に都筑幸哉から受けた免状が残されている。現代に近い人だったこともあり、また所属していた桂雪会という御家流の会がホームページを開設していたこともあって、ネットの検索によりプロフィールを比較的たやすく見つけ出すことができた。戦後も桂雪会で活躍していたようで、同会ホームページによれば、「古き良き時代の御家流香人の雰囲気を保ち、筋を通し厳しさも兼ね備える一方、暖かな思い遣りに溢れる優雅な香人」だったという。日本香道協会が昭和三九年から六〇年にかけて発行していた『香越理(かおり)』という機関誌にも何度か寄稿していて、御家流の中でも重鎮のひとりだったと思われるが、平成六年に亡くなっている。この大きめな文庫ひと箱分残された伝書や免状の入手経路や取得の時期については何も伝わっていないが、したがって平成六年以降ということになろう。
 一方の志野流の方はと言えば、寛政から文化年間に発給された伝書が中心で、一八世紀末から一九世紀初頭にかけての江戸時代の古文書類ということになる。伝書や免状の宛て名は藤井成子という女性で、その免状を与えた人が井岡道安だったのである。この時点で道安が津山藩藩医であったことはもちろん判明していない。免状を出せる、自身皆伝者であるはずの香道宗匠だろうとの推測がせいぜいである。
 御家流の時と同様、まずはインターネットで藤井成子を検索してみたが、現代の同姓同名は多数存在するようだが、江戸時代に生きた藤井成子の手掛かりは見つからなかった。当初は香道に関する書籍類が香木と一緒に購入された可能性も考えられたため、水戸家や紀州家の姫君や正室、側室を調べてみたがそれらしき名は発見できなかった。
そこで目先をかえて井岡道安を検索してみた。井岡で調べるとボクサー関連の莫大な件数がヒットするが、井岡道安にするとわずか四件で、そのうち確かなことがわかりそうなのは井岡道安がキーワードとして登録された、井岡冽という人に関する文献の情報のみであった。
 唯一の頼りであるその文献とは、津山市にある津山洋学資料館発行の研究誌『一滴』第二十号に載った、小宮佐知子氏による「井岡冽の人物像」という論文である。幸い横浜市立図書館の蔵書を検索すると所蔵していたので早速ネットで予約し、近くの図書館に回送されたものを取りに行った。読んでみると井岡冽は道安の息子で、小野蘭山に学んだ本草学者であった。道安についても多少触れていて、津山藩藩医であった井岡友仙の養子に入って藩医を継いだ人であるという。生年は不明だが没年は文化二年(一八〇五)とあり、残された免状の最後のものが享和三年(一八〇三)なので矛盾はない。しかも、伝書の署名に道安の他に元世とあったものが、道安の名として記されていることから、この井岡道安が藤井成子に免状を与えた者と同一人物と考えて間違いない。
案外あっさりと特定できてしまったものの、この事実からさまざまな疑問や興味が生まれてくる。まず、医師である道安が香道の皆伝者であることが、当時にあってはさほど珍しいことではなかったのか否か。それとも関連して、道安はそもそもどこで誰に香道の伝授を受けたかという興味もわく。ここで、わたしは江戸期の藩医というものの地位や制度について何も知らないことや、香道が当時どの程度広まっていたかといったことについての知識がないことに気づかされる。また、仕えていた津山藩、すなわち松平越後守の家中における、香道を始めとした文化的な環境も知りたくなるし、そこから当然蘭学や洋学の先駆者を輩出した津山という町への興味にもつながっていく。
実は、井岡道安とは全く関係のないところからわたしは長らく津山という場所に関心を寄せていた。それは、この通信の読者なら承知のことと思うが、甲斐荘楠香の京都帝国大学時代の恩師久原躬弦の故郷であることによる。久原躬弦は貢進生から東大の前身である大学南校に進み、最終的には東大理学部化学科の第一回卒業生となった人で、日本化学会の初代会長にもなった化学者である。その久原家も津山藩藩医であったし、箕作家や宇田川家も藩医である。明治以降に多くの優れた学者を出した箕作家には前から興味があり、幕末に三代にわたって有名な蘭学者を出した宇田川家も気になる存在である。そんな有名どころにまじって井岡家というものがあり、世間的にはそれら三家に比して無名ながら、井岡道安は香道宗匠もしていたということになれば、おのずと関心は高くなる。
さらに、道安に関する初期の調査においてわたしの関心を決定づけたのは、里村家に残されたと思われる「連歌人名録」に道安の名を見出したことである。里村家は、徳川幕府連歌師を勤めた家で、その人名録には堂上貴族や地下の家人も含めさまざまな「有名人」が登場する。たとえば、香川景樹や北村季吟平田篤胤、さらに上冷泉家や六角堂池坊家などの名が見える。成島柳北の祖父邦之助の名前もある。それらの名に並んで「元世 松平越後守様儒医井岡道安」とあるのである。これにより道安は医師のみならず儒学者であったことが知れる。医者であり儒学も講じる、連歌香道もたしなむという知識人、教養人としてのすがたが浮かびあがってくる。
連歌と聞香とは、三條西実隆や飯尾宗祇を引きあいに出すまでもなく密接な関係を持つものであったが、江戸も後期にさしかかる時期に連歌香道にも秀でた儒医がいたのである。大室幹雄中村真一郎の本に出てくる文人というのは、漢詩を中心として書や画をよくし、あるいは狂歌俳諧あたりの文芸をこととするのがほとんどである。成島家のように、儒家でありながら和歌も詠む者も少なくはないが、逆に歌学を重視する国学系の人たちは唐ぶりを毛嫌いすることから漢詩を遠ざける者も少なくなく、そうした歌人は江戸の「文人」という範疇からは微妙にずれる。人名録にあった平田篤胤や香川景樹を考えればそれもうなずけるだろう。と言うことは、儒者である以上漢詩ぐらいは詠んでいた可能性の高い井岡道安という人は、連歌のみならず香道もたしなむことによって、当時の文人の中にあっても、文化的な幅の広い人物ということになるのである。
当時の医師や儒者の通例から考えて、道安がそれなりに幅広いネットワークや交友関係を築いていたであろうことも予想される。医師であれば漢方であれ蘭方であれ、幕府や藩の医師養成所や私塾に入って師について学ぶのが常道であったし、別に本草学の師について学ぶことも多かった。師弟の結びつきはもちろん、同じ学統に属する門弟同士の関係も緊密であった。儒学にしても同様であり、そこに漢詩文のやりとりが加われば人脈はさらに広がる。ましてや、香道連歌では師匠や同門、流派内の交流は、身分の違いを越えて密なものがあったと推測できるので、単なる交友のみならず、道流の皆伝者として多くの弟子を抱えていた可能性もある。
その辺の交友関係については追々調べていくことにして、現時点までにわかった井岡道安に関する文献にあらわれた基本的な情報を、主に前述の小宮佐知子氏の「井岡冽の人物像」に依って、ここでまとめておくことにしたい。
井岡道安は豊前の出身で元の名を中島三折という。江戸で医学を学んでいたところ、津山藩医井岡友仙の目にとまり養子となった。井岡家は江戸詰の医官ながら三百石の高禄を食み、代々道貞を名乗ったので、道安も妻を娶った後道貞を襲名した。道安は晩年に名のった号であるらしい。他に元世の名があることは既にふれた。子に冽(きよし)、号桜仙があり、道安没後は津山藩藩医と侍講を引き継いだ。有名な本草学者小野蘭山の弟子となり、著作もあって世間的には道安よりも名が知られていた。天保六年(一八三五)に刊行された『当世名家評判記』の「本草家之部」に井岡道貞として挙げられている。
道安の生年は不詳だが、没年はすでに述べたとおり文化二年(一八〇五)である。したがって、道安が仕えた藩主は寛政六年(一七九四)に没した津山松平家五代康哉(やすちか)と、文化二年に早逝した六代康乂(やすはる)の二代ということになる。
ところで、五代康哉の側室に「井岡氏女」とあり、年代的に道安の娘である可能性はあるが、今のところ確証はない。ちなみに同じく康哉の側室に「藤井氏女」もあり、これが香道伝書の持ち主「藤井成子」ではないかとも思うのだが、その辺の謎解きは後々の楽しみにとっておきたい。
また、津山洋学資料館のホームページ上にある「洋学博覧漫筆」なるコーナーに掲載された「津山で行われた開臓」という文章から、藩医としての道安の動向をわずかに知ることができる。これは、寛政四年(一七九二)に宇田川玄随が津山で初めて行った解剖について触れたもので、その際参加見聞を願い出た藩医五人のうちに道安の名が見える。本文中では井岡洞安となっているが、江戸時代は名前の表記、特に号などは同音異字を当てることも多く、また誤記の可能性も高いので、道安と見て間違いはあるまい。杉田玄白による有名な小塚原の腑分けから二十一年後にあたるこの年に、江戸でも蘭学の最先端を行く玄随の行う解剖に無関心ではいられなかった道安のすがたがうかがえる。
他に文献上で名前が見えるものとしては『新訂寛政重修諸家譜』の中に、旗本坂部正武の後妻に「井岡道安の娘」とあり、年代的には合うので間違いないと思う。旗本の後妻に娘を入れるくらいだから、藩主の側室に娘を送りこんでも不自然ではないことになる。ちなみに、将軍家でも六代家宣の時に奥医師太田宗庵の娘が側室として入っていて、諸藩でも似たような事例はあったのだろうと思われる。
もうひとつ、文献上で道安の名前が出てくるものとして『吉備群書集成』に収められた『堕涙口碑』がある。同書は康哉、康乂二代の藩主の言行録だが、道安は「生まれつき正直にて飾なきもの」であるとして、権勢を誇った側室に対して贅沢を戒めるべく憚るところなく直言したので、康哉候も信任厚く常に側近くに召していたと語られている。正直はともかく、「飾りなきもの」が香道をたしなむだろうかという一抹の不安は覚えるものの、藩主から信頼を寄せられていたことがうかがわれる。
ところが、同じ書の康乂時代のエピソードでは少々違った面が語られる。それによると、領内の加茂村というところで、六本足の牛が生まれたとの報告が入った際、井岡道貞すなわち道安が康乂候の側にあって、「物産吟味」のためその牛を城に取り寄せてはいかがかと勧めたという。康乂候はこれを是としたが、すぐさま同じく藩医であった松田樹軒という人が、六本足の牛などというものは片輪であって、「町辻のみせもの」でしかないから取り寄せるのをやめるよう進言したところ、それを聞きいれて牛見物は中止になったという。この康乂候はわずか二十歳で没しており、その話がいくつの時かは不明だが、臣下の諫言を容れた聡明さを示すエピソードの中で、道安は一本取られた格好である。
 現在のところ、これらに先に引いた里村家の人名録を加えたものが、文献上にあらわれた井岡道安に関する情報のすべてである。この先調査を進めるなかで、新たな文献や資料にめぐりあう可能性はゼロではないが、それを待つ暇はない。今はむしろ、残された香道関係の文書に立ち返って新たな情報を得る努力を続けたいと思う。その前提として、志野流の香道というものや、藩医という職業、さらに津山藩の来歴と実情について詳しく知ることから始めたいと思う。それが道安という人物を理解するための外濠として不可欠な事がらと思われるからである。【以下次号】