惡童と理麝發香

十一月二十九日(土)陰時々晴
藤が丘にてリハビリの後横濱市營地下鐡をあざみ野から阪東橋迄乘り、徒歩シネマ・ジヤツク&ベテイに到り、晝過ぎより映畫『惡童日記』を観る。言はずと知れたアゴタ・クリストフのベストセラー小説の映畫化作品である。小説を讀んだ時の衝撃と傑作であるとの印象は強く殘つてゐるが、内容を詳しく覚えてゐる訳ではない。從つて原作との比較で云々する事は出來ないが、少なくとも原作を思ひ出させるやうなシーンは殆どなかつたやうに思ふ。それでも、ハンガリー語の聞き慣れぬ話し言葉や懐かしさを感じさせる農村風景の美しさによつて、小説を讀んで勝手にイメージしてゐたものとは違ふ、確かに映畫らしい世界に出會へた事は素直に喜ばしい。小説を讀みつつ、とても映畫には成り得ぬ話のやうに感じてゐた記憶も微かに殘つてゐるからである。
自分を撲る者が必ずしも敵ではなく、親切にして呉れる人が必ずしも善人ではない。友達と思つてゐた人たちは簡単に殺され、自分たちを見捨てた兩親も呆気なく死んで行くが、そんな事に煩はされてゐる暇はない。強く生きる事に決めた双子の男の子たちにとつて出遭ふ苦難はすべては教訓あり、余計な感情や道徳心、甘えを排して冷徹に事實だけをノート(=日記)に記して行く事だけが、生を支へる便(よすが)であつたに違ひない。
残酷で野卑な祖母の迫力は壓倒的であり、殺されるユダヤ人の靴屋を除くと誰一人善良さうな人間の登場しないスクリーンを見續けてゐると、商業主義と偽善に完全に覆はれた聖林(ハリウツド)映畫では決して味はふ事の出來ない、ある種の開放感と腹の底から湧き起こる哄笑にも似た愉快な氣分とを感じて來るから不思議である。これは矢張りユーゴスラヴイアの映畫監督エミール・クストリツツアの作品からも感じられる氣分で、それはハンガリーやユーゴスラヴイアの監督の描く人物達の言動が、文明以前、倫理以前の人類の心の古層に潜む何物かに触れるからではないかとも思ふのである。
分かりやすい感動やお涙頂戴、安つぽい高揚感やお手軽な娯楽性は一切ない。いや、何か深刻なテーマを突き付けられたといふ重さすらない。要するに、登場人物の誰一人に對しても安易な感情移入を拒絶し、善悪や美醜といつた對概念を伴ふ価値判断を一切放棄した處へ観る者を連れ去つて呉れる映畫に久しぶりに出會つたといふ事であらう。此の感覚を齎(もたら)して呉れる映畫監督は、余にとつてはタルコフスキーとクストリツツアくらゐしか思ひ浮かばない。其処に今日、此の作品の監督ヤーノシユ・サーシユが加はつたのである。
其の後鎌倉に出て靴を購ひ、更に公文堂にて穂井田忠友著『觀古雜帖幷理麝發香』を購ふ。現代思潮社より昭和五四年に刊せられた日本古典全集の覆刻版であるが、アマゾンにも日本の古本屋にもなく、横濱市の圖書館にもない。原本は天保期に上梓され、其の覆刻となる古典全集は昭和三年の出版である。『理麝發香』は奈良時代の國府などの公印を蒐めた印譜である。公文堂に行く度に見てゐたものだが、木村蒹葭堂絡みだつたか此の本への言及に出會ひ、竟に購入することとなつた。価仟伍拾圓である。
鎌倉を去つて大船にて近視用の眼鏡を誂ふ。今まで家で掛ける眼鏡は手許の細字も讀めるかはり、コンピユーターの文字も見づらい程に近眼が進んだので、老眼鏡の必要がない程度に近視用の度を進めるといふ難しい意向に、眼鏡屋の若い女の子は快く應へて呉れ氣持ちよく買物が出來た。