帝國大學と呼吸

二月二十八日(土)晴
東大は嘗て「帝國大學」と呼ばれた。東京帝國大學ではない。單に「帝國大學」であつたのだ。京都にも帝國大學を創設するに當つて東京の文字が付け加へられた。尤も其れ以前に東京大學と名乘つた時期もあるのではあるが。
その東京大學醫學系研究科教育研究棟鉄門記念講堂に朝から出掛けて行く。嗅覚研究の大家森憲作先生の退官記念シンポジウムを聴講する爲である。
東大には何度か行つてゐるが、其の都度緊張してしまふ。何といふか、歩いてゐる人すべてが頭良ささうに見えて、尻込みしてしまふのである。自分のやうな者が此処に居て怒られはせぬかといふ惧れもあり、決して居心地の良いものではない。イエールやプリンストン、ハーバードやオックスフォード、そして京大や慶應のキヤンパスに居てもそのやうな氣分は感じたことはなく、東大は特別なのである。所謂東大コンプレツクスであらう。ましてや今囘は醫學系である。江戸期から維新期明治に掛けての醫學史或は醫學教育史に興味を持つてゐるだけに畏敬の念が混じる。だから私は自分の存在を消しつつその場に居ることにした。お蔭で何人か居る知人にも氣づかれず、誰からも聲を掛けられずに済んだ。マスクに花粉防御用のゴーグルをしてゐたので、ちよつと見ただけでは誰だかわからないといふこともあつたかも知れないが。
さて、元々ないオーラをさらに打ち消しつつ聴講したシンポジウムはといふと、朝九時半から夜の七時過ぎまでの長丁場で、途中理解しようとする意志と自分の理解力の乖離により意識不明に陥る事は何囘かあつたものの、とても有意義な時間であつた。もとより生粋の文系である私には話を理解する爲の基本的知識が備はつてゐないこともあり、細部まで分かる筈もないのであるが、それでも分かる範囲で刺激になる講演は多かつた。總じて、嗅覚研究が急速に進歩してゐることが實感出來た。四・五年前までは日本味と匂學會といふものに入會してをり年次大會にも出て研究發表も聞いてゐたから、門外漢ながら一應の概要は摑んでゐた。其の後公私に亘る失意の時期に退會して以來、最新の研究成果から遠ざかつてゐたので余計に、久しぶりに聞く話に研究の進歩を感じられたのであらう。
興味深い發表は多かつたが、一番私が面白かつたのは掉尾を飾る森憲作先生による一時間を優に超える講演であつた。私に森先生をよいしよしても何も良い事はないので是は本心である。「呼吸リズムと嗅覚神經囘路」と題された講演はサイエンスの慎ましやかな領分を越え出た大胆な予測やダマシオを引き合いに出す意識への仮説などは殆ど哲學に近いもので大いに共感出來るものであつた。呼吸には當然吸氣と呼氣のフエイズがある。匂ひを考へる場合吸氣を普通想定するが、實は呼氣時にも嗅神經囘路は發火してゐる。ただ、呼氣と吸氣で發火の場所と其処に至る經路が異なるのである。即ち呼氣時には嗅覚器からのインプツトで浅層の神經細胞が發火する。是は外界の刺激のセンシングとして、一般に考へられる處の「感覚」である。ところが呼氣時にも深層囘路で發火が起こつてゐて、其れは海馬を含めた高次脳からのインプツトを受けてゐるといふのである。この囘路は「感覚」であるよりも「行動」に近いモデルであるといふ。此の話を聞いて思ひ出すのは、調香師が最初に匂ひの嗅ぎ方を教へられる際、吸うのではなく吐く時に匂ひを感じるやうにせよと言はれることである。實際其の方が匂ひの特徴がよく摑める。不思議な事に思つてゐたが、其れは正に、息を吐きながら記憶を含む高次の脳機能を經由するインプツトと倶に「嗅」いでゐたとも思はれるのである。言ひ換へれば、吸氣と倶にまづ匂ひによる危険察知等を瞬時に行ひ、呼氣フエイズでは記憶との照合を含む「評価」としての嗅覚を働かせてゐることになる。もちろん、實驗で示されたのはラツトでの結果であるから、其の儘人間に當て嵌るかどうかは分からないが、嗅覚研究に於ける「呼吸」の重要性の指摘は目から鱗の落ちる思ひであつた。特に「吐く」ことの人間にとつての重要性は、武道、坐禅、瞑想等の行きつく處を見れば明らかであり、感覚と思つてゐるものの意識の混入、逆に意識と思つてゐるものに先立つ脳の干渉といつた、感覚と意識を廻る今日的な問題への明解な筋道を示してくれさうな氣配すら感じる。また、卑近な處では香席に於ける聞香の際、鼻に吸い込んだ際の香りではなく、吐く時に感じるものに意識を集中させる方が當てる確率が高まるかも知れない。
講演で耳で聞いただけでは理解できないことも多いだらうし、使はれてゐる用語や解剖學的な部位の知識も必要であると思ひ、久しぶりに嗅覚研究の最新の雑誌や書籍を幾つか註文した。私の場合間歇的にやつて來る嗅覚への興味が再び蘇つて來たやうである。