信號

七月二十一日(火)晴
若い頃は赤信號でも構はず渡つてゐた。巴里では誰もがさうしてゐたし、注意力に自信もあり實際歩くのも速かつたので勿論事故に遭つたこともない。「赤信號、ひとりで渡つても怖くない」であつた。それが最近は信號をよく守るやうになつた。歩行速度も落ちたし、何より信號を守らない事が格好悪く思へて來たのである。特に、青になる前に渡り始めるセコさと、赤になつてもゆつくりと歩く圖々しさが嫌ひで、ああいふことだけはしたくないと思ふのである。「赤信號、渡つて轢かれたら自己責任」といふ思ひもある。自分が車を運轉してゐる時もやはり同じで、今では黄色で突込むこともないし、信號待ちで苛々することも少なくなつた。凡庸化なのか單なる老いなのか。ところで、博報堂が出してゐる『廣告』といふ雑誌を毎號送つて貰つてゐるが、今號の「生い おいおいの 老い」といふ特集は中々面白い。今の若者が近未来の高齢化社會に世の中がどう變はるかを予想するページがあるのだが、中に「歩道に『お急ぎレーン』と『ごゆるりレーン』ができる」とか、「横断歩道の『とおりやんせ』が二番まで流れるやうになる」といつたアイデアがあつて、成程余の變化も老いの結果なのだと妙に納得したものである。