娼館

二月二十五日(日)陰時々晴
ルイス・ブニュエル監督『昼顔』を有楽町にて観る。久しぶりに触覚を刺激するヨーロッパ映画を観た感じがする。若いころからベルイマンフェリーニ、あるいはタルコフスキーといった、国こそ違え共通する感覚を持つシネアストの映画に親しんでいたのだが、あの頃漠然と感じていたものに久しぶりに出会った気がするのである。それはカトリーヌ・ド・ヌーヴが大理石の暖炉の縁を手でなぞるところや、ド・ヌーヴに入れあげる若い男の革のコートやブーツに端的に表われる、乾燥した空気のもとの極めてシネマトグラフィックな感覚のことである。これは日本映画には出来ない芸当で、逆に日本映画や東南アジアの映画にある湿り気も嫌いではない。別ものなのだ。それはともかく、ド・ヌーヴの完璧な美しさとともに、ブニュエルらしい現実と夢幻の入り混じった映像を堪能できたように思う。ブルジョワジーの抑圧的な生活から来るファンタズムの諸相や貴族へのコンプレックスといったものや、睦み合うこととは別種の戦いに似た愛のかたちを読みとることは出来たが、おそらく、ド・ヌーヴでなければ全くお話にならない映画なのだろうとも思った。
そう言えば先週の日曜には家でDVDの『秋日和』を観た。前日にオリジナルの色彩を再現した『浮草』を見て、アグファ特有の色彩について話を聞いた後だけに、やはり毒々しい色彩に見えた。アグファの発色で白黒映画の中のグラデーションのように出すつもりでつけられた色がそのまま画面に映るのでけばけばしくどぎつく見えるのである。小津のカラー映画に感じていた違和感の正体もそれだったのだ。なんでもない壁や木の枠に色をつけたのはアグファなら彩度が落ちて落ち着いた陰翳になるからなのであって、そのまま画面に出てしまったら小津なら顔を顰めていたに違いない。