辟支佛

造像功徳経を読んでゐて見知らぬ言葉にぶつかつた。辟支佛といふもので、辟や支の文字を漢和で引いても出てゐない。単語でなく文として支を動詞として読まうとしても意味が通じない。ところが、法華経を読んでゐたら同じ言葉が出て来て注釈もあつた。それによると辟支佛とは要するに独覚のことで、「びゃくしぶつ」と読むのだが、それはサンスクリツト語からの音写だから漢字に意味はなかつたのである。独覚とは佛の教へによらずして悟つた者を言ひ縁覚とも言ふ。佛の教へを聞く者といふ意味の声聞と並べて「声聞・独覚」とはよく佛典に出てくる。経典を読んでゐると自分の無知ばかり思ひ知らされる。ただ、此の前新しく買つた「漢字源」といふ辞書は引きやすいし見やすいのだが、佛教用語はあまり充実してゐないやうだ。矢張り佛教辞典の類が必要かも知れぬ。それにしても岩波文庫法華経の注はわたしのやうな初心者には親切でわかりやすい。さう言へば訳者のひとりである岩本裕の『日常佛教語』といふ中公新書を持つてゐたのを思ひ出して書棚から取出してみると、だうして「日常」どころではなく、佛典を読むに際して最低限必要と思はれる用語が並んでゐて、此れは是で通読すべきものであると思つた。何処で読んだかは忘れたが、此の岩本裕といふ人は驚くべき博識で知られてゐたものの、ずけずけはつきりとものを言ふ性格が災ひして学界では不遇だつたといふことだ。一寸気になる人である。図書館で借りて来た梵漢和対照本は、正確であらうとするあまり文辞が煩雑に過ぎ、注釈など文法書の如くになつてをり、サンスクリツト語を勉強中なら兎も角、今のわたしには文庫版で十分のやうである。
三時半起床、坐禅、読経、掃除は日課の如し。昨日はわりと平気だつたのだが、今朝は頭が寒くて頭痛がして来た。已む無く毛糸の帽子を被る。