逆行

四月十日(火)晴
今朝から突如腰痛に苦しむ。肩、腰、膝と全身ガタが來てをりジムにも往けず。其の為体重が増え危険水域に入りかけてゐるので今日から粗食を心掛けやうと思ふ。定時退社し、腰痛の為常より時間が掛るもいつもの電車に何とか間に合ふ。帰宅後直ぐに大石膏盛堂の貼り薬を貼つて貰ふ。其の後尺八練習。越後三谷前半を繰り返し吹く。夕食後書斎にて書翰二通を毛筆にて認む。相変らず蚯蚓がのたうち廻るやうなものにしかならないが、恥を晒せば其の分習字に精進できるものと自らに言ひ聞かせつつ書く。更に日本古典文学大系の『三教指帰・性霊集』を繙き、「勅賜屏風書了卽獻表」を書写す。此れは空海の書論、文字論、言語観を含むものにて、先日魚住和晃の『「書」と漢字』といふ本で初めて知り興味を持ちたるもの。和綴本に楷書にて書き写す。字の大きさや字間・行間を上手く揃へる技術は、書き続けることによつてしか習得し得ないと思ひ、とにかく興味のある文章を書写してみやうと思つてゐる。書体も一定せず、線の太さも不揃ひなれば、昔の経巻等の活字の如き斉一さに今更ながら驚嘆す。書き始めると面白くなり気がつけば十一時半となり、急ぎ就寝す。
今通勤時に福田恆在の『私の國語教室』読んでゐる。言はずと知れた現代仮名遣ひ批判、歴史的仮名遣ひ擁護の書である。我が意を得たりの快さを味はうと倶に、往時の國語改革論者の滅茶苦茶な論理に唖然とする。金田一京助が一気に嫌ひになり、新明解国語辞典を捨ててしまはうかとさへ思ふ。そしてまた、現在は旧仮名で我慢してゐる此の日乘の漢字も旧字にしたいといふ欲望が芽生える。旧字旧仮名といふ言ひ方にも抵抗し、正字正仮名として其の使用を推進するサイトに「言葉 言葉 言葉」があり、余もちよくちよく覗いてゐるが、旧字旧仮名派は絶対的少数であるが故に多くの差別に曝されるらしい。此のサイトは勿論全て旧字が用いられてゐるが、流石にちよつと読みにくいといふか、ものものし過ぎる感はある。ただ、書をやらうとすれば漢字其のものと向き合ふ必要が生じ、其処に「行書」や「草書」はあつても、「新字」や「簡略体」は在り得ない訳だから、正しい字体書体を覚えるには旧字をしつかりと学ばなければならないのも確かなことであるし、そもそも日本語がきちんと理解できてゐれば旧仮名遣ひなど少しも難しいものではない筈なのである。いづれにせよ時代に逆行するのが余の生き方である以上、今後は或る程度旧字を使ひたく、「今昔文字鏡」などの旧字体検索・変換ソフトの購入も検討してゐる。もつとも、変換そのものはネツト上で出来るサイトを見つけたのでコピーして貼り付けることは出来るやうで、まずはフリーソフトなどで使へるものがあるかを試してみやうと思ふ。
ところで余は会社でも書斎でも広辞苑を机の脇に置き何かにつけ引いて確認するのを常としてゐるが、今日或る言葉を調べるついでに偶々今まで知らずにゐた実に面白い言葉を発見した。其れは「ちょろけん」といふもので、語感のふざけ具合が丁度いい上に挿画がまた楽しい。余の持つてゐるのは第四版と古いので最近のにまだ残つてゐるかは知らないが、興味があつたら是非広辞苑を繰つてみてほしい。微笑むこと請け合ひである。

追記:福田の福は勿論旧字なのだが、此のハテナのブログでは其の字が出ない。本当にはてなである。