昭和の本 

九月二十一日(金)晴
昨日古裂會からの封書と倶に書籍小包も届いてゐた。其れは日夏耽之介の『荷風文學』で昭和二十五年刊行の古書である。戰後の本なのだが紙質が一定でなかつたり、焼けや染みも結構ある上、もともと左程造本に凝つたものではなかつたのは鳥渡殘念である。六十年以上も前の書籍である以上當然と思ふ向きもあるか知れぬが、其の前に届いた昭和三年刊の巖谷小波著『私の今昔物語』が埃臭さはあるものの、装丁も中々上等で紙質も良く造本もしつかりしてゐた為それより新しい此方をもう少しまともであらうと勝手に予想してゐたのでさう思つた訳だ。戰前と戰後の世相や資材の違ひが本の質に出たと言ふことなのであらうが、耽美派の耽之介の本だけに美麗な書物であつて欲しかつたのである。
巖谷小波と言つても最近の若い者には耳慣れぬ名前だらうが、尾崎紅葉硯友社に加はつた後児童文學に轉身した作家で、荷風散人が先生と敬称した数少ない中の一人である。父は巖谷一六と言つて書家としても有名で明治の三筆に數へられる。又小波の四男に文藝評論家の大四、孫に仏文學者の國士がある。小波は俳句をよくしたらしく、俳人とのつきあひも多い。『私の今昔物語』は今昔物語の翻案ではなく懐古談ほどの意味である。今讀んでゐるのだが是が又面白い。明治大正の文壇、畫壇、政界、實業界はもとより新聞紙上を賑はす人々に至るまで、知己の多いのには驚くばかりである。それにしても明治の文人といふのは多趣味といふか時間があるといふべきか、結構色んな事をやつてゐる。書や畫や俳句を嗜むのは當然の事で、謡曲義太夫、その他の音曲の一つや二つは必ず齧ってゐる。「今は昔、私も二十八九の頃には、これで一寸藝事をやつて見た事がある。笑つちやいけない。それは澁がつて一中節と云ふ奴だ」といふ調子である。一中節は荷風の好んだ宮薗節にも近い浄瑠璃の一派であるが、恥しながら余には一中節も清元も常盤津も、全く違ひがわからない。此の秋各派の三絃に親しまうとしてゐるのは、それもあつて江戸音曲を少しでも知らうといふ意図があつたのである。