雨瀟瀟

十二月二十一日(金)陰
昨夜草森伸一著『荷風永代橋』讀了。續けて荷風「雨瀟瀟」を讀む。薗八節についての言及があるので有名だが、要するに妾宅に纏はる身辺雑記にも似た小品である。この作品の収められた新潮文庫は架蔵してゐるが、新字新仮名であるのと昔の文庫本なので余りに活字が小さく讀みにくい上、やはり荷風正字正仮名で讀みたいので、岩波から出てゐる「荷風小説」といふ撰集の古本をアマゾンで買ひ求めた。箱入り上製本の装丁もしつかりした造本が今や配送料込で五百五拾圓、即ち本體価格三百圓である。
今囘讀み直して思つたのは、高校の頃初めて此れを讀んだ際には、筋立てといつてこれとない此の作品から殆ど何も讀みとれてゐなかつただらうといふ事だ。待合や畜妾についての知識はあつたにしても、宮薗節の何たるか、ましてやその三味の音のしつとりとした哀調など知りはしなかつた。といふより、其について知つたのはつい最近のことであり、やつと自分も「雨瀟瀟」を讀んで少しは分かるやうになつたと言ふべきかも知れない。もつとも宮薗節に留まらず、王次囘を始めとした詩人の漢詩の引用も少なくないが、今でこそ返り点を辿つておおよその意味は摑めるやうになつてゐるが、當時の自分は恐らく讀み飛ばしてゐた筈である。小説の中に出て來る詩の引用をまともにじつくりと讀むやうになつたのは最近の事に属する。わざわざ詩を引く意図がわからず、また詩の意味内容もよく判らない事が多くて、大抵はじれつたくて讀み飛ばしてゐたのである。小説を讀むことに急で、文學を味はふ事が出來なかつたのである。「雨瀟瀟」には仏蘭西語の詩も、原文と荷風による訳文との兩方が載せられてゐる。大して難しい詩ではないので、仏文出身の余としては何とか讀解はできるが、高校時代には勿論分かるべくもない。今では荷風の翻訳を讀んで成程さう訳すか、上手いものだと興がることも出來る。又、文中に荷風が言及する文人や文物の類も當時の余は殆ど知らずにゐたのだから、荷風の趣味の那辺にあるかを感じとる事もなかつたであらう。父親の書斎に在るものとして描寫される「紫檀の唐机水晶の文鎭青銅の花瓶黒檀の書架」などといつた文物も、五十余年の人生の中で實見もしその価値や希少性も分かつて來たからこそ、その文人趣味が偲ばれるのであつて、高校生に分かる筈もない。ましてや、偶偶少し前に中野三敏の『近世新畸人傳』を讀んで其の來歴人となりを詳しく知る事になつた江戸の書家澤田東江について触れた一文など、何のことだかさつぱり分からなかつたであらう。或は妾宅の造作の描寫に言及された「胡麻竹の打ち並べた潜門の戸」といつた寂びた趣きは、その風情を思ひ浮かべることさへ出來なかつたに違ひない。
さう考へてみると、昔讀んだ荷風などどれ程其の良さ面白さを味はひ得たものか非常に心もとなく思へて來る。讀書とはそんなものと割り切る事も出來やうが、味はひ得ぬまま、それでも随分と荷風のものを讀んで來ただけに、心細い気持ちにはなる。余が初めて荷風の作に親しんだのは、中學三年の事である。忘れもしない、中三の國語の授業中あまりのつまらなさに、持参してゐた文庫本『墨東綺譚』を取り出して讀み始めた。それに氣づいた教師が余のもとにやつて來て「何を讀んでゐる」と叫びながら余から本を取り上げた。そして、どうせ下らない漫画の類でも讀んでゐるのだらうといふ顔付で本を開いて表題を見た。とたんにバツの惡さうな表情になり、苦笑にも似たにやけた顔を浮かべて「なかなか良い本を讀んでゐるじやないか。でも授業はちやんと聞かないとな」と言つて文庫本を返した。怒られるものと成り行きを見守つてゐた同級生たちは何が何だか分からずにゐたことであらう。荷風は良い本なのか、と其の時に納得したからといふ訳ではないが、其の後も『あめりか物語』や『ふらんす物語』を始めとする荷風文學に親しんだ。其の頃文庫本に入つてゐたものは大抵讀んだ筈である。
しかし、余の荷風好きが更に一段階進むのは、大學に入つて斷腸亭日乘を讀み始めてからのことである。爾来「荷風的」な趣味やスタイルが余の指針となつた。江戸文人趣味への憧れや、近代化を突き進み江戸の面影を失ひつつある日本、とりわけ軍人が横暴を極める軍國主義下の日本への憎惡、或は孤高や孤独への嗜癖といつたものである。漢文脈を活かした斷腸亭日乘の文體が、此の日乘の文章の手本になつてゐるのは言ふまでもない。斷腸亭に出て來る深川や築地、麻布界隈もよく散策に出掛けたくらゐである。
其の斷腸亭日乘を、自ら永代橋の化身となつて、荷風永代橋との關はりを軸に讀み解いてゆくのが草森の快著にして怪著であつた訳だが、教へられた事も多く、又脱線に次ぐ脱線の饒舌が續くところなど八百頁を越える大著なのにいつまでも讀んでゐたいと感じさせるやうな、樂しい讀書であつた。草森の影響もあり、また江戸音曲への興味の嵩まりも重なつて今囘再讀した「雨瀟瀟」であるが、昔讀んだ時にはまるで知りもしなかつた事柄や、理解することのなかつた荷風の趣味やセンスの面白さが、此の齢になつてみるとかなり共感や憧れ、感興をもたらすものであることに今更ながら気づかされてみれば、既讀未讀含め、暫くは荷風の世界に耽溺してみたくなるのも當然の成り行きといふものではなからうか。