雲右衛門

十二月二十五日(火)晴
兵藤裕己著『<声>の国民国家浪花節が創る日本近代』読了。この人の本は初めて読んだが、とても面白かった。浪花節の来歴や日本芸能史の中での位置づけ、桃中軒雲右衛門について、わたしの知りたかったことをおおよそ教えて貰っただけでなく、浪花節に潜む近代日本の国家意識の相克という視点や、リテラルな文学に対するオーラルな語りや歌、芸能の底力のようなものを教えて貰った気がする。まだ、日本の芸能の面白さに目覚めたばかりの自分ではあるが、義太夫や諸々の浄瑠璃、三味線の音曲、講談や落語と並んで、浪曲はきわめて興味深いものに思える。ユーチューブで多少聞き始めてはいるが、桃中軒雲右衛門の声は確かに「地獄の底で吹きすさんでいる風」(花田清輝)を思わせるこの世ならぬもので、何やら胸騒ぎがしてくる。少し下がって広沢虎造の渋いダミ声も、昔こんな声を幼心に聞いていた気がするが、近くは国本武春の伸びやかな名調子はそれでそれで好きなのだが、桃中軒とは全く違う世界のものに思える。
宮崎滔天が弟子入りした雲右衛門の出自の、江戸と明治を跨いだ暗い闇と、滔天の背後に蠢く亜細亜への策謀と国士的雰囲気…。浪曲師の生きた姿がそのまま浪曲的であることの必然は、落語家の落語的人生、講談師の古浪人的自重、さらには歌舞伎役者の傾きぶりと合わせ、面白くもほろ苦いものを感じさせる。私小説を含めた所謂「文士」なるものが、文士を演じ自ら書いたものと同化して殉死すらしていくことの起源も、もしかしたらそんな伝統に根ざしているのかも知れない。
ところで、謡曲義太夫、端唄や新内の声真似ならすらすらと出来た私が、いざ浪曲となると全く歯が立たない。声質の違いと言ってしまえばそれまでだが、あれは一体どんな発声法なのだろう。とにかく正月に木馬亭に行くより仕方がない。私はやはり虎造のような声が渋くて好きなのだが、果たして現代の浪曲師にあの手の声はいるのであろうか。