浪曲的 

十二月二十六日(水)晴
平岡正明著『浪曲的』を読み始める。同じ人の『新内的』の方を先に買っていたのにこちらが先になってしまった。ただ平岡兄貴が江戸の折り目正しい町人言葉を聞きたいならコレ、と推奨している岡本文弥の新内『次郎吉ざんげ』の入ったCDは早速注文した。
それにしても浪曲という芸能が背負った、明治という時代との共犯関係が面白い。昨日読み終えた兵藤裕己の本も、線を引いた箇所を含めついつい見返してしまう。備忘のためにメモを残すことにしよう。
浪曲の源流はチョボクレで、チョボクレはさらに京都鞍馬寺大蔵院円光院を本寺とする願人坊主の門付け芸を起源とする。
○チョボクレが関西でなまってチョンガレとなり、これに「蝶浮かれ」の字を当てたところからやがて「浮かれ節」となり、関西では明治の末まで浪曲節は浮かれ節と呼ばれていたという。従って浮かれた節だから浮かれ節なのではない。
○山伏に起源をもつ歌祭文の系譜から、やがて俗人によるデロレン祭文が派生するが、明治二十年ごろデロレン祭文は一大人気を博していた。
○江戸時代以来、芸能はどこで演じられるかによって明確な階層性があった。一番上が劇場で、ここには歌舞伎やその伴奏音楽たる長唄などが入る。次が寄席で、落語や講談である。その下に、ヒラキと呼ばれる葭簀張りの小さな小屋を掛けて木戸銭はとらず半ば開放系にしたものがあり、チョボクレやデロレン祭文はこれが多かったようだ。さらに最下等がヒラキも持たない狭義の大道芸で、文字通り大きな通りで完全開放系でやるものだ。デロレン祭文の一部や乞胸と呼ばれる芸人が大道で演じた。この辺の階層性がわかっていないと、後に浪曲が寄席にかかるようになり、桃中軒雲右衛門他が果ては劇場ですら演じるようになることのインパクトの大きさを取り違えることになる。
○ところが明治二十年に、そのヒラキが浅草六区に集約され他処では禁止となる。その結果デロレン祭文の芸人たちが大挙して浪花節に転向し、もともと隣接芸能ではあったが、両者が融合するような形となった。桃中軒雲右衛門の父親も祭文語りであり、実際雲右衛門の節回しは現在我々が耳にする浪曲よりはデロレン祭文に近いものであったようだ。