備忘録

五月三十一日(土)晴、暑し
圖書館にて數書を借りて歸る。内一冊の『激動期の美術』より柴田是眞に触れた「漆中筆あり」を讀む。是眞の墓の淺草今戸称福寺にある由を知る。又、是眞の弟子泰眞と鏑木清方一家の親しかつた事、是眞が京遊学中、香川景樹に歌を学び、頼山陽を訪ねた事を知る。江戸四条派の流れを汲む是眞であるが、文政期には江戸琳派狩野派などにも四条派の畫風がかなり取り込まれてゐたらしい。今まで知らずにゐた是眞を廻る経糸緯糸であつたので、忘却に備へ此処に記す。
又、晝食後別の借書『渡邊崋山集第一巻』より崋山の日記「寓畫堂日記」を讀む。崋山二十三歳の日記にて、日々畫の模寫と内職、そして公務に励む様を書き留む。沈南蘋から狩野派光琳、南畫、浮世繪に至るまで貪欲に模寫して畫業に勤しむ姿を知る。師である谷文晁宅にしばしば赴いたり、諸大名や旗本からの畫の依頼が多い事など面白く讀む。