読書

八月十八日(月)晴
ふと思い出すのは、思春期のころは他に楽しいことが何もないから本を読んでいたということだ。書物だけが友達だったと言い換えてもよい。孤独で人に馴染まない少年は、当然のことながら文学の与えてくれる感動や、哲学書が見せつける論理構成の壮観、そして多くの書物がもたらす思惟の陶酔に仮初の慰藉を感じていた。「知」は自分にとって唯一のプライドの拠り所であった。
今では、学者でもジャーナリストでもないのに、幾つか自分のテーマを抱えてでもいるかのように、特定の分野を集中して読むことが多くなっているが、それでも時折、全く関係のないジャンルや分野の本を読みたくなって手にした本に心動かされ、それまで熱中していた分野が俄かに色褪せるということがままある。というより、特定の分野に興味が強まると、それに関連した本をどしどし入手してあっという間に読めるペースをオーバーフロウしてしまい、次第に面倒くさくなって他の分野に目が行くようになるというのが本当のところかも知れない。このところ明治末から大正の産業界や財界人、成金、茶事や文化などに関心が向いていたが、ちょっと飽きてきた。それでも本は読みたいので珍しく小説を手にとった。三島由紀夫の『絹と明察』である。新潮文庫から出ている三島のものは中学から大学一年くらいまでの間に大方読み了えていたつもりだったが、千夜千冊を見てこれだけ何故か読んでいないことに気づいて、しばらく前から読もうと思っていたのである。そんな経緯もあるからか、読みだしたとたん思春期のころの読書に際しての気分のようなものが蘇ってきた。そしてつくづく、今もまた他に楽しいことも夢中になれることも何もないから本を読んでいるのだということに気付いたのである。本を読んでいると、生きているような気がする。しかしながら、本を読んでいない時間こそが、通常言うところの「生きている」時間なのだろう。私はついにまともな生を生きることが出来なかったのかも知れない。
勿論その責任を書物に押しつけるつもりは毛頭ない。