戦争責任

二月四日(日)晴
ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』読了。十年以上前の刊行だが、私にとってはきわめて有益で心に残る本であった。戦後の日本の姿について、これほどまで明確かつ幅広く掘り下げた類書を私は知らない。井上寿一の『終戦後史』も、これを読んでしまうと表面的なものに思えてくる。特に天皇の戦争責任免責をめぐるアメリカの策動や、GHQによる言論弾圧の過酷さについて、アメリカの研究者だからこその明言とその詳細な解説があって、今までも断片的にはいろいろなところで読んではいたものの(この書以降にここでの記述や紹介した文書をもとに書かれたものも少なくないと推測する)、納得させられるところが多かった。また、日本人の戦争責任に対する意識の希薄さの由来の分析は鋭く、かつ客観的で公平なものだと思う。日本人の被害者意識の生成過程やそれを促進した諸事情、或いは平和と民主主義を求める中で東京裁判をめぐる諸批判の整理も冴えていて、要するに東京裁判を批判する如何なる言説も、最初から天皇免訴と政治利用を決めていたGHQを批判し、同時に天皇の戦争責任を問うのでない限り、全く論理的にも倫理的にも正当性を持ちえぬものであることが、この本によって私はよく理解できたように思う。天皇だけがすべての責任から逃れており、そのことを完遂するために進駐軍と戦後の保守政治家が手を結んだ結果の、何とも釈然としない状況の中で、多くの日本人は自分の責任を感じることをしなくなった。同じような構図が日本のあらゆる局面で今でも続いている。権力への順応と被害者意識、そしてダブルスタンダードの横行への諦念から来る、当事者意識の欠如である。それはまさに占領期に日米が合作した「日本モデル」のひとつの典型であった。自分たちの今の姿が何に由来するのかを考える時、敗戦後のさまざまな日本人の言動や思想、生き方の、総体としての理解と分析は今なお絶対に必要だと私は思う。そのためにこの本の存在は私にとって大きな光明となった。私にとって戦後はまだ終わっていない。これからもそこに拘ってこの時期をめぐる諸書を読んでいきたいと思っている。
映画「羊の木」を劇場で観た。偶々昨日テレビで紹介されていたのを見て、北村一輝田中泯という好みの俳優が出ていたので観てみる気になったのだが、駄作であった。一輝ちゃんと泯さんを見られたのが良かっただけの、ストーリーも伏線も、羊の木やノロロさまのおどろおどろしさや象徴性も、何もかもが中途半端な作品だった。原作の漫画を読んでいないが、おそらくもっと緻密に登場人物の背景や性格・心理が描かれていたのだろうと思う。六人の主要人物はそれぞれ重い過去を背負っているはずなのに、二時間余の映画の中では描き切れずに散漫となり、各人も、そしてその繋がりも強い印象を残さない。漫画を読んだ人にはそれなりに面白いのかも知れないが、それを当て込んでいるのなら映画の堕落であろう。最近の日本映画は漫画の原作が多いが、それ自体は漫画の質の高さを物語りこそすれ何ら非難すべきことではない。ヒズミにしろこの世界の片隅に海月姫にしろ、映画として十二分に面白くよくできた作品も少なくない。私のように普段漫画を読まない人間は、映画から入って原作の漫画を読んでみることも多く、それはそれで両者が響き合う楽しみをもたらしてくれるものなのだ。それなのに、この映画を観た後には決して原作を読んでみたいとは思わなかった。最初に漫画を読んでいれば面白いと思えたかも知れないが、映画が先だとこの映画の欠点を改めて気づかされるばかりのような気がして読む気になれないのである。その意味でもきわめて残念な作品であった。