コロナと穢

  コロナウィルスの感染拡大は世界規模となり、大変なことになっているのは誰もが承知していることなので、そのことについて私がつけ加えることは何もない。ただ、今回の感染予防として取られた対策が、私に日本の触穢思想を思い出させたので、それについて少し述べてみようと思う。

 日本人の宗教観の古層に「神祇信仰」と呼ばれるものがあるのはよく知られている。その宗教観念の中心をなすものは、死への怖れに由来する「穢(けがれ)」という観念である。汚穢や穢れたものに対する禁忌や嫌悪、畏怖は多くの民俗宗教に見られるものだが、日本の穢観念で興味深いのは「触穢」というものである。穢となるのは、死穢、血穢、産穢の三種が代表的なものだが、失火なども穢として扱われる。ここではわかりやすく死穢に限って話を進めよう。触穢には甲、乙、丙の三種があり、甲とはすなわち穢が発生した場所および人である。その甲穢に触れた人が乙穢であり、さらに乙穢に触れた者が丙穢になる。それぞれ穢を祓い落とし、清浄を回復するのに必要な期間が設けられ、物忌と慎みをして過ごさねばならなかった。その間はもちろん神事や公的な行事に出ることは許されない。

 これはまさに、甲=感染者、乙=感染者との濃厚接触者、丙=乙との接触の可能性がある人、すなわち国民全体に相当する。触穢で興味深いのは、それは物理的な「接触」だけを意味するのではなく、塀や壁、垣根などに囲まれた閉鎖空間に甲と居たことや、多少開口部のある空間でも甲の近くに「着座」した場合に触穢とされることであろう。甲がいた閉鎖空間が、丸ごと穢とされるわけである。まるで、ウィルスの存在を前提としているかのような規定ではないか。

 現在、感染者(甲穢)は完全に隔離され、濃厚接触者や感染が拡大した国から帰国ないし入国した者は一定期間隔離され、今や国民すべてが外出を制限されて自宅待機を強いられている。触穢の制度そのものと言えるのである。しかも、穢には「天下触穢」というものまであって、天の下あまねく穢とされるのである。現在の状況はまさにそれであろう。ちなみに天下触穢となった場合慎む期間は三十日というから、これも現在の諸外国の外出禁止期間に近いものがある。

 想像される通り、触穢観念は差別思想と結びつく。日常的に触穢に近い環境で仕事や生活をしなければならない人を穢れたものとみなすようになるからである。というより、日本の差別の源流には触穢観念、もっといえば神祇信仰があった。神祇信仰とは、曲がりなりにも体系化された神道以前の日本人の漠然とした宗教観念と考えればわかりやすい。葬式の後に塩が渡され、家の前でまく風習は、穢を家内に入れまいとする神祇思想に根差した宗教観念にほかならない。これに異を唱えたのが法然親鸞であり、「神祇不拝」、すなわち神祇を拝まない、触穢を気にしないという、仏教の平等思想に根差したきわめてラディカルな態度である。そうなると、彼らが信仰そのものと断じた「念仏」こそが、現代の「医療(メディカル)」のようにも思えてくるではないか。