岩倉の企み

 

 久保正明『明治国家形成と華族』(吉川弘文館2015)を読んでいる。副本として岩波日本近代思想体系の『天皇華族』を参考にしながら、明治初期の華族制度成立の過程を理解しつつある。近代天皇制を確立していく中で、ある意味必然とも思われる華族制度ではあるが、実際には岩倉具視を中心にした一部のオーガナイザーが介在しなければ、決して自然に成り立つものではなかった。もともと、旧大名と公家という出自の違う上流階級を明治二年という早い時期に「華族」の名のもとに纏めて以来、廃藩置県の実行や国会開設を睨んだ動きの中で、無為徒食と非難されることも多かった華族天皇制国家の権力機構の中に取り込み体制化させていくプロセスが、必ずしも易しいものではなかったことがわかり興味深い。華族会館の設立を通じて華族の結束と統制を図る一方で、天皇の名において海外留学を勧め、陸海軍に従事することを奨励しながら、明治国家における華族の意義と役割を明確にしていくことで、現在我々が「華族」というものに抱くイメージが確立していくわけで、明治十七年の華族令で爵位が定まるまでは、かなり流動的な要素が多かったこともよくわかった。

 中でも明治九年から十七年まで存在した、「宗族制」なるものについては、その詳細を知らずにいたので多くを学び、興味を引かれた。宗族制とは、華族を家格や位階と関係なく、同じ先祖を抱く家ごとにグループ化したもので、明治十一年の『華族類別禄』によれば、七十六類に分けられ、それぞれ族長を置いた。皇族の末裔とされる「皇別」と神の末裔とされる「神別」およびその他の「外別」に大きく分けられ、その下にたとえば第四十二類 藤原朝臣 鎌足十七代忠通裔として旧五摂家や醍醐家、津軽家、大岡家などが入る。摂家も大名も同族であり、当主の当時の位階によるのか近衞篤麿が一番最後に置かれているのも面白い。出自の明らかにあやしい大名と同じ宗族に入れられた旧公卿家の中には不服に思った者もいただろうし、逆に居心地の悪い思いをした旧諸侯もあっただろうと思う。久保の取りあげた例では、公家だけで構成された宗族は概してまとまりに欠け、一方旧大名の越前松平家の宗族である第二十六類などはわりとまとまっていて仲も良さそうに見えるのは面白い。第二十六類には旧福井藩松平慶永、同美作の確堂、同松江の直應や松平康民といった有名人が多く、この面々の「新年会」の様子など、ちょっと覗いてみたい気がする。

 宗族制そのものは、明治十七年の華族令で勲功華族爵位を得ることになるとその意味を失って廃止となるので、あまり知られていない制度ではないかと思う。わたしも華族会館設立の経緯と併せて今回初めて知ったことばかりである。また、華族の在り方が定まる中で、岩倉の国家観の影響と同人の果たした役割の大きさを知ることになった。逆に言えば、これらとは全く違った華族の在り方となった可能性もあったわけで、明治十七年の華族令に至る間の華族間の意見の相違や民間の華族観や意見についても、詳しく見ていくことで、明治政府において何が選択されたかをより明確に理解できるのではないかと思う。

 私の個人的な興味は、こうして着々と確立されていく華族制度に取り残された大身の帰順旗本の動向にあるが、その心情を理解するためにも、当時の世論や情報を知ることが必要だと思っている。その上でこそ、彼らの中に繰り返し「爵位請願」が起こって来る心性の理解が可能と考えるからである。