《京大澤柳事件と菊池大麓》

二月二日(月)晴
△京大事件といふ名のもとに知られてゐる出來事は幾つかあるが、わたしが目下關心を寄せてゐるのは大正二年(一九一三)に起こつた、澤柳事件とも呼ばれる方のものである。わたしは長いこと高砂香料創業者である甲斐荘楠香の事跡を調べてその評傳めいたものを書き續けてゐるが、大正二年に歐洲遊學を終へて歸國する處まで進んで、楠香の母校京都帝國大學が當時どうなつてゐたかを知らうとして此の事件に行き當つた。同年五月に京都帝大總長になつた澤柳政太郎が、七月になつて京大の教授七人に辭表を提出させた事に端を發した一連の騷動を指すが、澤柳の前任の總長が楠香の恩師久原躬弦であつたことから、何やら不穩なものを感じて調べてみる氣になつたのである。
△澤柳事件は大學自治をめぐる文部省と大學との對立であり、總長による教授會の承認なしでの教授罷免が問題となつた。この事件以前に、總長や學長の互選や大學の自治を廻つて文部省と對立することの度々であつた法科大學の教授たちが、澤柳の措置に對していち早く異を唱へて協議會を開き、意見書を作成して各分科大學に回付した。他の分科大學(今日の學部に相當)に大學自治の認識が低かつたこともあり、この意見書は當初ほとんど支持されなかつたといふ。それでも八月に法科大學仁保學長が意見書を總長に提出、さらに十二月には奥田文部大臣に上申書を提出する。年を越して大正三年一月一四日に法科大學の教授助教授一九名が辭表を提出する。此処に至つて他の分科大學も法科を支持し、さらに學生も大會を開いて全面支持を表明。其処に東京帝大法科の有志も加勢して、京大法科支持の「覚書」を奥田文相に出す。急轉下東大法科の重鎮穂積陳重らの調停もあつて、一月二四日に法科の主張の一部が文部大臣の承認するところとなつたと仁保學長が発表したことにより決着したとするのが、一般的な理解である。澤柳は四月末になつて辭任してゐる。
△それから二十年後に起こつたもうひとつの京大事件である瀧川事件と比べると、この澤柳事件についてはその経緯や背景に關する論考は少なく全容が解明されてゐるとは言ひ難い。實際人びとの關心を呼ばないのか話題にされることも尠いやうに思ふ。大正デモクラシーや同時期の大學自治の動きに絡めた言及は散見するものの、事件の定説をそのまま敷衍したものが殆どである。そんな、歴史の中に埋没したかに見える事件に興味を持つたのは、先に擧げた久原躬弦との關連を疑つたからであるが、其の前年すなはち久原總長時代に總長お膝元の有機化學實驗室から出火して大學本館が全焼したことや、事件後の大正三年になつてその理工科大學が理科大學と工科大學に分離したことに気づいたことによる。辭任させられた七人のうち五人が理工科大學の教授であつたことも氣になつた。
△それにしても、「七」といふのは不思議な力を持つ數字である。竹林の七賢人や七人の侍、七卿の都落ちなど、それが十五人だつたり四人だつたりすると全く意味が違つて滑稽なものになつてしまふ。意圖してやつたかどうかは知らないが、「七教授の罷免」といふだけで、最初から歴史的な事件といふ匂ひがして來るのである。それはともかく、七人の教授たちの名前、最終學歴、所属、専攻、および罷免時の年齢を確認しておきたい。
  

  1. 吉田彦六郎 東京帝大理學部化學科卒 理工科 有機製造化學 五四歳
  2. 村岡範爲馳 獨逸シユトラスブルグ大卒 理工科 物理學 五九歳
  3. 吉川亀次郎 不明 理工科 應用電氣化學 四三歳
  4. 三輪桓一郎 東京大學仏語物理科卒 理工科 數學 五二歳
  5. 横堀治三郎 東京帝大工科大學卒 理工科 採鉱冶金學 四二歳
  6. 天谷千松 不明 醫科 生理學 五三歳
  7. 谷本富 帝國大學文科専科終了 文科 教育學 四六歳

△此の事件の立役者澤柳政太郎は慶應元年(一八六五)松本藩士の子として生まれ、東京帝大文科大學哲學科を卒業後文部省に入つて文部官僚としてのキヤリアを始める。府立一中時代の同級に幸田露伴や狩野亨吉がゐた。第一高等學校長や東北帝大初代總長などを歴任した後京都帝大總長に轉じた。京大事件で辭任した後は、再び「官」に就くことなく成城學校の校長や大正大學の學長を務めた。その政太郎がなぜ七人に辭任を迫つたのかと言ふと、不適任教授の存在が大學の健全な発展を妨げてゐるとの認識が文部省にあつたからである。當時教授に定年がなかつたことから老朽教授の存在、そして急激な大學擴張により本來その能力のない者や、品行に問題のある教授の出て來たことなどが文部省の懸念であつた。澤柳の京大總長任官と同時に、東京、東北、九州の各帝大の總長も新たに任官されてゐることからしても、文部省および當時の文部大臣奥田義人に大學改革の意圖と方針があり、澤柳は其の線に沿つて行動を起こしたものと思はれる。
△さういふ背景があつたとして、それでも澤柳の人選には疑問を感じる。老朽と言ひながら最年長でも五九歳であり、殘りは五十代前半か四十代であつたからである。では學問的な業績や能力で劣つてゐたのであらうか。此処では話を理工科大學に絞るが、吉田、吉川、横堀、村岡ともに、經歴や業績から推して決して見劣りのするものではない。數學者の三輪桓一郎のみ業績は明らかではないが、嘗ての同僚であり當時は政治家として教育行政に隠然たる影響力のあつた菊池大麓の意向があつたのではないかと考へる向きもある。
△菊池大麓についてわたしは前々から興味を持つてゐた。菊池大麓は箕作阮甫の孫、箕作秋坪の子であり、學者一族として有名な箕作家の血を引く。洋行してケンブリッジ大學他で立派な成績を修めた後、二十二歳の若さで東京大學の數學教授となつた。その後東京大學總長、學習院長、京都帝大總長を務め、文部大臣にもなり爵位(男爵)を得るに至つた。大正六年には理化學研究所の初代理事長になっている。理系から政治家に轉じて成功した一人と言つてよいだらう。その菊池にとって自分の専門分野であるからこそ三輪の能力を見極めて低く評価してゐたか、逆に駿才を謳はれながら數學の分野での研究業績に乏しく若くして教育行政の中樞に軸足を移してゐた菊池が三輪に對し個人的な惡感情を持つてゐたことも十分に考へられる。權力を握つた人間が、公正さや客觀的な評価とは別の次元で目障りな人間や嫌ひな者を簡單に社會的に葬り去らうとする事は今日でも日常的に見られることだからである。
△大麓は既に述べたやうに明治四一年京都帝大第三代總長に就くが、同四五年樞密院顧問官に任ぜられるや即座に辭任、その後を受けて總長となつたのが久原躬弦であり、さらに澤柳へと引き繼がれた訳である。この三人の關係は中々複雑で、圖式的に言へば大學側の久原と、文部官僚の澤柳や政治家の菊池が對立することになるが、久原と大麓は津山藩で先祖の代からつきあひがあるし、菊池と澤柳の間にも意見の相違はあつた。菊池は理科と工科の分離に反對であり、吉田や吉川といつた工學系の教授の価値や能力を認めてゐた。これに對し澤柳は理工科大學の分離を推進し、企業と關係が深く顧問としての収入もある工學系の教授たちを學者らしくないとして嫌つてゐた節がある。と同時に、其処には理工科大學の分離をめぐる暗闘のあつたことも指摘されてゐる。
△そもそも、東京帝大がさうであるやうに京都でも當初理科と工科は別の分科大學となる筈であつた。ところが諸般の事情から理工科大學として出發したものの、分離への要求も高まつてゐた。それでゐて中々實現しないのは反對する者もあつたからである。其処に研究費の予算の配賦や人事に絡む對立があつたのではないかと言ふ推測もある。それにしても不思議なのは、大學本館全焼といふ事件に研究者が誰も触れてゐないことである。もちろん、派閥闘爭の中での放火による火事だと言ふつもりはないが、當時の總長久原が直接指導する有機化學實驗室からの失火であり、三高から引き繼いだ本館を消失して被害額も四十萬圓以上だったといふのに、責任問題であるとか処分の出された形迹を今のところ攫めないでゐる。其の後本館から離れた實驗室が建てられ、さらに二年後に理科と工科に分離してしまふ事を考へ合はせると、火事との關連も全くないとは思へないのである。
△久原が火事の責任をとつて總長を辭めたかといふとさうでもない。もともと學究肌で大學行政には消極的で、教授や學生からの信頼も厚いとは言へないものだつたらしい。帝大總長刷新の機運を察して辭任するや、初志である研究に集中出來るようになつて喜ばしいといふ声明さへ出してゐる。同郷で同い年の菊池大麓の後に渋々總長を引き受けたものの、機會を捉へてさつさと辭めてしまつたといふところだらうか。
△ところで、法科大學の教授連中が、自分のところに罷免された者がゐないのに職を賭してまで教授任免の教授會承認を總長に求めた事を壮擧のやうに看做す向きもあるやうだが、實際には美談とは程遠い生臭い事情があつたやうだ。すなはち、最初の七人にこそ含まれてゐなかつたにせよ、澤柳は次に法科の教授も免官すべく人選を行つてゐたやうなのだ。其れも突然罷免にするのでなく、その前に法科大學の學長に打診してゐたので、事態を知つた法科が團結したのだと云ふ。それに、法科の教授たちが罷免された七人の復職を求めたことは一度もなかつたことにも注意しておきたい。法科の教授が絡んだ瀧川事件では復職を求めてゐたし、辭めさせられた瀧川教授は戰後になつて教授に復職した後總長にもなつてゐる。瀧川事件では大學自治だけでなく學問の自由や言論彈壓が問題とされてゐるので同日の談ではないが、尠くとも澤柳事件に關して言へば、法科大學の求めた自治とは身内の權利確保に過ぎなかつたやうにも見えるのである。
△菊池と澤柳の關係に戻ると、實は大麓も嘗て澤柳事件に似た事件を起してゐた。といふのも、明治三七年(一九〇四)に乃木希典の後を受けて學習院の院長になつた際無能な教官を免官にしたところ學習院内部の抵抗により自分が辭任するはめに陥ったのである。また、明治三九年に澤柳が倫敦大學で日本の教育に就いて講義をすることになった際、羅馬に着いた澤柳に牧野文部大臣から文部次官に迎へたい旨の電報が入り、急遽代りに菊池が講義をしたことがある。其の際菊池は澤柳の用意した英文原稿をもとに講義をしただけでなく、それを勝手に出版してしまつた。これを讀んで澤柳は意圖することの曲解もあつて甚だ面白く思はず、自分でも準備した原稿を出版してゐる。澤柳の方が十歳年下であり、政治家としての地歩を得た大麓とは社會的な地位に違ひはあつたが、ともに教育行政に關はり獨自の教育觀・教育論を持つてゐた二人には互ひに相譲れぬ處が多かつたものと思はれる。澤柳事件を結局澤柳を切り捨てる形で決着させた文相奥田義人が、東大時代に教官であつた大麓の話したケンブリッジでの大學生活の様子に感化を受けて馬鹿騷ぎを起こして退學処分になつてゐたことも何やら因縁めいてゐる。
△菊池大麓と澤柳政太郎については、今ではその名や業績を知る人も多くはないだらう。菊池の秀才ぶりや箕作家の閨閥が話題になることはあつても、今日その教育論をまともに讀む人はゐない。理数的な明晰な頭脳を持つてゐたにも拘らず、教育論の起點を皇國史觀や大和魂に置いてゐるからである。それに對し、後に成城學校において自由主義的教育を實驗・實踐し、帝國教育會々長として種々の教育改革の提言や著作を爲した澤柳には今日全集もあつて、菊池よりは教育學の世界で多少なりとも知られた存在である。とは言へ、澤柳の評価は毀誉褒貶相半ばしてをり、明治國家と自己を同一視し得る世代・經歴であることから來る制約を考慮しても、其の主張する處は必ずしも理解・共感しやすいものではない。
△澤柳事件について振り返ると、澤柳に獨斷専行の氣味があつたことは否めないが、當時の法制上澤柳總長に教授の任免權はあつたのであるから、辭任させた事に法律上の問題はない筈である。其れに對し異議を唱へ、「官」の支配による慣例を變へさせることを大正デモクラシーの動きのひとつと捉へることは可能である。旧弊を打破するのにかういふ抗議・蹶起の有効であることを認めなければ、社會變革など望めないとする立場はあり得る。ただ、よく知られてゐるやうに、大正デモクラシーの弱點のひとつに、さうして勝ち取つた權利なり承認なりをきちんと明文化・法制化しておかなかつたことがある。自分たちの要求が法を曲げて通つたことに滿足し、「前例」を爲したことへの過信からか、獲得したものを制度化する努力を怠つたのである。法文化まで出來る社會状況ではなかつたことも確かであらうが、別の見方をすれば法律といふものを輕視する姿勢でもあつた。その意味で、澤柳事件でつかの間の大學自治といふ夢を摑んだのが他ならぬ「法科大學」の教授たちであつたことに、わたしは歴史のイロニーを感じてならないのである▽
【参考文献】

  • 『澤柳政太郎 その生涯と思想』新田義之・本の泉社・2014
  • 大正デモクラシーと教育』中野光・新評論・1990
  • 『破天荒<明治留學生>列傳』小山騰・講談社選書メチエ・1999
  • 『瀧川事件』松尾尊�偃・岩波現代文庫・2005
  • 『未完の教育學者‐谷本富の傳記的研究』瀧内大三・晃洋書房・2014
  • 「京都帝國大學における澤柳事件」影山昇『成城文藝(紀要)』第168号・成城大學・1999
  • 「京大澤柳事件とその背景―大正初期の學制改革と大學教授の資質」谷脇由希子『大學史研究』第15号・2000