夏目坂根岸谷中

十月二十七日(土)陰
八時家を出で一如庵に向かひ十時より稽古。大和樂、布袋軒鈴慕、布袋軒三谷、流し鈴慕曙調子を二回。そして一閑流六段を二度吹く。學生時分に買つた一尺八寸が今になつて割によく鳴り出した。最近は家でも八寸をよく吹き、外曲も練習してゐる。地歌は特に三絃を思ひ浮かべながら吹くと結構樂しいものである。十一時二十分頃一如庵を辞し、地下鐡にて入谷に赴く。十二時過ぎ家人も來たり、近くの蕎麦屋で晝食をとつた後根岸の書道博物館に往く。黄庭堅他宋代の書を観る。蔡襄の楷書泉州万安橋碑の拓本は顔真卿の影響を如實に傳へる素晴らしいものであつた。好みは黄庭堅だが、矢張り蔡襄や米芾の書には品格を感じる。書道博物館の後は直ぐ目の前の子規庵を訪なふ。二度目の訪問だが、思ひの他客が多く、團體客まで入つて來た為じつくり見られず。ただ、芒の靡く庭を見て遥かに子規を偲ぶのみ。子規自筆の草稿を収めた『はて知らずの記』を購ふ。
子規庵の庭
薄と子規庵
子規庵の糸瓜
子規庵を後にし、徒歩線路を越えて上野桜木に出で、谷中墓地の縁を通つて初音の道を辿り、途上にある骨董店などを覗く。初音小路までは行くもののその先上野寄りは初めて通る道にて中々面白き店多し。結局余は龍村織物の財布、矢筈、因州和紙の便箋を購ひ、更に夕焼だんだんに至り信天翁にて唐木順三『日本人の心の歴史』と高橋武子著『都々一坊扇歌の生涯』を買ふ。給料日後二日にして小遣ひの大半を失ふに至る。隣の古着屋悦にて先日家人が購ひし付下げの直しが上がつて來たので受け取る。谷中せんべいにて煎餅を買ひ御殿坂の酒屋では北雪の一升瓶を求め、本行寺をざつと見てから日暮里より京浜東北線にて一本で歸路に就く。歸宅六時半。早速北雪を呑み、夕食を取りたる後睡氣甚だしければ早めに寝に入る。

骨董民芸「初音」入口は立派だが置いてあるものは手頃。
静座法の聖地本行寺
さう言へば此の日は出身中學の同窓會なるも、余は結局出席をせず。小遣ひが乏しいこともあるが、矢張りいまだにあの頃の自分も好きになれないし、周りに居た人々とも特別話をしたいとも思へなかつたのである。懐かしさよりも痛ましい記憶の斷片しか感じない以上行く意味を見出せなかつた訳である。