美しい女(ひと)、のその後

一月十七日(木)陰
最近ネット上の画像でもっともショックを受けたのはナスターシャ・キンスキーの近影であった。あんなに美しかった人が、ただのごついおばさんになってしまった。私と同じ年の生まれだから五十過ぎではあるけれど、世の五十一とくらべても老けている上、何やら荒んだ雰囲気が漂う。これには頭をガンと撲られたような衝撃を受けた。イザベル・アジャーニの劣化も目を覆いたくはなるが、昔の面影はあるし五十代後半だからまあ仕方がないと思えたのだが、キンスキーの方は今の顔貌から若い頃の美しさを想像することもできない程の変りようである。余りの姿に、時間の残酷さと生きることの苦しみを感じざるを得ない。若い頃の美しさは天性でも、四十を過ぎた姿を美しく保つために必要なことがあるのであろう。実の父親の姉に対する幼児の頃からの性的虐待やレイプという闇はあるにしても、ここ二十年程の生活が決して幸福ではなかったであろうことを示すとしか言いようのない変貌である。
キンスキーより三歳ほど若いモニカ・ベルッチは老けこそしたが美しいくセクシーだし、五歳下のソフィー・マルソーなど若いときよりも余程魅力的になっている。ソフィーと同じ歳のイレーヌ・ジャコブにしても、上品な美しさを保って魅力的であるのに、キンスキーの変貌は一体どうしたことであろうか。五十前後の五歳の差は大きいとも言えるが、それにしても酷過ぎるのである。老けたなりの魅力とか美しさというものもあるのに、それとは全く別方向への激変であろう。そうした女優たちと比べてみると、吉永小百合が化け物のようにも思えてくる。モニカやソフィーは、西洋人らしく横顔は老けても美しさを保持するが、吉永小百合は横顔だけでなく正面から見ても実年齢とはかけ離れた若い美しさ、いや可愛さがあるのには本当に驚かされる。どんなに美しい女性でも齢をとれば若い時より美しさの減ずるのは当然にしても、その変化の度合いに人生そのものが反映してしまうのであろう。そして、それは若い時美しければ美しいほど、時にその変化の大きさに人をして言葉を失わしめるインパクトがある。ナスターシャ・キンスキーの場合がそれであり、若く美しい姿をリアルタイムで知っていた同じ年の自分には、その衝撃が今までの中でも一番大きかったということなのであろう。老けたコマネチを見た時よりも遥かにショックは大きかった。