鮑しやぶしやぶ

三月二十四日(木)小雨後晴
定時出社、晝食の後外出して本社に赴く。二時過ぎより今夜會食を爲す某次期家元につき、社長に説明す。其の後余は早めに社を出で、丸ノ内にて土産の品としてエシレのマドレーヌとフィナンシェの詰合せを二箱購ひ赤坂に行く。此の日は伯父の葬儀なるも此の接待があつて不参。處が妙なもので其の場所が其の伯父の妻、即ち余にとりては血の繋がる伯母の眠る報土寺のすぐ近くなれば墓参す。間もなく伯父も入れば寂しくなくなると伯母に語りかければ萬感胸に迫る心地す。寺を出て周邉を散策す。此の邉りの舊地名は赤坂新町にて、甲斐荘楠香の妻彦が娘時代に過ごした町なれば、懐かしくもあり。行き止まりの狭い道を行けば崖下に行き着く。余が幼少の頃を過ごした麻布新堀町も崖下にあり、余にとりては東京の原風景とも言ふべき景色也。往時の東京の姿を僅かに幻視したるが如き心地になる。六時前菊乃井に入る。ミシユラン二つ星といふ。赤坂の料亭に入ることなど恐らく余にとりて一生に一度のことであらう。勿論一番乘りなので、部屋の室禮などじつくりと觀ることが出來た。床の間を見ると落款に「是眞」と讀める。まさかと後で聞くとやはり柴田是眞の本物であつた。寫眞を撮つたのは言ふまでもない。待つ間に出されたのは一保堂の焙じ茶であつた。當然のことながら余は末席である。
やがて社長の車で社長と二人の役員が到着し、定刻の六時に客人二人が着いて會食が始まつた。献立は季節の贅を尽くしたもので、今まで見た事もないやうなものも少なくない。特に鮑のしやぶしやぶは聞いたこともない料理で若布と筍のだし汁も合せて美味であつた。酒は控へ目にしたが、とても全部は食べ切れぬ程の量で、それが少々殘念であつた。會食中の會話も彈み、有意義な接待だつたやうに思ふ。客人を見送り社長を見送つてから歸途に就く。