偏屈

戊戌元旦(日)晴
新年になつた。余は數へで五十八になつた。昔であれば老人である。歳をとつたからといふ譯ではないが、自分がよほど世間の人々と違つて來た感じはある。決して偏屈にならうと思つてゐるのではないのに、結果的に偏屈と呼ばれても仕方ないかも知れない。年末年始は特にさう感じる。クリスマスに何か祝ふとか特別な事をする氣になつたことがないし、大晦日に紅白歌合戰などまず見ることはない。今日は家の近くの神社に初詣には行つたが、これは家人について行つたまでであり、基本的に年中行事は民俗として、或は宗教学的な興味はあるものの、自分で参加するのは面倒な方である。出來れば避けたい。同じことが食にも言えて、食べること自體本來面倒であり、食べずに済ませられればどんなに良いかと思ふ。音樂も似たやうなもので、偶に聞く分には良いと思ふが、音樂がなくては生きていけないといふタイプではない。それと、余は温泉が嫌ひである。苦手と言つてもいい。温泉に行くと風邪をひく。熱さが續いて夜寝苦しく、気づくと布団がはだけて寒気を感じるといふことの繰り返しである。夏は熱すぎ、冬も湯冷め後は温泉に入らないときより寒く感じる。かう書いて來ると、一體何が樂しくて生きてゐるのかといふことになるが、確かに歳とともに樂しい事などあまりなくなつてゐるのである。まあ、野球は本當に面白いと思ふ。メジャーもパリーグ高校野球も皆面白い。あんなに面白いスポーツはないと思つてゐる。冬場はそれがなくなるから特につまらないのであらう。テレビでサツカーの試合を見ても、日本のはスペインリーグやプレミア、セリエAと比べて餘りに見劣りがして面白くない。正月だが今日は酒も飲まなかつたし飲みたいとも思はなくなつてしまつた。テレビをつけても何を見ても面白いとは思はない。特定の好みの藝人はゐるが、それ以外は全く面白くない。年末から年始に掛けての格闘技番組で凄いと思つたのは井上と那須川だけで、それも相手が弱すぎるのか、試合として面白いものではなかつた。昔の名人藝を見てしまつた爲に、今の藝が未熟でつまらなくなるといふのに似た、批評の基準が高止まりしてしまつた老人獨特の不幸の始まりかも知れぬ。さうして毎年益々生きにくくなるのであるから、年が明けても何の目出度いこともないのである。