花粉と述懐

三月十二日(木)晴
 今年の花粉は酷い。花粉症向けのゴーグルのやうな眼鏡をしてゐるのに目が痒くてじつとしてゐられない程である。鼻や喉は痒いといふより痛い。春が憂鬱な季節になつてから久しい。梅が咲き柳が芽吹き水が温み始める時期に心から喜びを感じ得ぬこの悔しさと悲しさは、もしかするとこの先日本文学を讀んだり鑑賞したりする際の感性そのものを変へてしまふかも知れない。古典文学、いや近代の俳句にも見られる日本の春の季節感に對する感情がもはや共有されにくくなつてゐるからである。傳統的な國民の感性が過去のものとなり、昔の日本人は春の訪れを喜んでゐたと國語の授業で教はるやうになる日もさう遠くはなささうである。
 ネツトのニユースを見てゐたら宮崎縣のある處で民間の有志が杉を伐採して広葉樹林に替へることで花粉症を撲滅させようと一口仟圓の寄附金を募つたが三萬圓しか集まらず、結局ボランテイアで細々と伐採を續けてゐるといふ。余もそれなら寄附をしたいと思ふのだが、如何せん宮崎の杉では効果に對する現實感がない。全國規模にならなければ意味がないのであらう。それにしても國策で杉を過剰に植林した結果がかうなのであるから、失政として杉花粉症患者は國を相手取つて集團訴訟を起こしてもよささうなものである。賠償金を払へといふのではない。杉は伐採すれば後に自然と広葉樹が生えてくるといふのであるから、とにかく出來るだけ伐採してもらへばいいのである。勿論、京都の北山杉や有用な産地は殘すにしても、明らかに無駄な杉林がなくなればどれだけ樂になることかと思ふ。それとも、花粉症の薬で儲けてゐる製薬會社が政治的な壓力を掛けてさうした動きを何としても阻止しようとするのだらうか。そんな事を考へてゐたら、杉の花粉以上に世の中に對して憂鬱な氣分になつて來た。ましてや先日今の政權が文民統制の全廃を目指すといふ、思はず我が目を疑ふやうな開いた口の塞がりやうもない愚劣さを目にした後だけに、憂鬱に沈むばかりである。
 先日テレビのニユースでイスラム國がイラクの博物館の彫刻などの文化遺産を破壊してゐる映像を見て何たる蛮行かと思つたが、考へてみれば日本でも僅か百五十年にも満たぬ昔に廃佛毀釋として同じ事をしてゐたのだと気付いて嘆かはしさに氣持ちが沈んだ。徳川時代の佛教中心の宗教政策のもと、ルサンチマンを発酵させてゐたフアナテイツクな神道家や國學者の煽動と勝ち組長州のテロリスト氣質が結びついて、無殘な文化財破壊活動が行はれた事を我々日本人は決して忘れてはなるまい。ただ、破壊行為は論外であるものの、偶像崇拝と宗教の本質との關係はさう單純な話でないことも事實である。佛像やキリスト教彫刻は美しく文化・藝術的觀点からすれば貴重なものであるが、原始佛教やキリストの教へに真に從つたものであるかと言へば大いに疑問である。呪術的宗教ならともかく、さうした高度な宗教觀念に支へられた大宗教は本來偶像崇拝そのものを容認してゐるとは思へないからである。來週から東京國立博物館で印度コルカタ(旧名カルカツタ)博物館所蔵の佛像展が開かれるので余も出掛けるつもりで、佛陀追憶追慕の情と佛舎利塔荘厳の爲の装飾から始まる佛像誕生の過程を感じ取れたらと思ふが、余には佛像を礼拝の対象とする事が佛陀の教へだとは到底思へぬのである。
余は幕末明治期の長州出身の政治家すなはちテロリスト達が大嫌ひだが、だからと言つて同時期の會津や奥州列藩を特に好むものでもない。ただ、明治半ば以降に會津や米澤、秋田、仙臺といつた藩閥政府下で煮え湯を呑まされた藩から出て、教育行政や學問の世界で名を成した人々には敬意を覚える。山川健次郎や平田東助、宮嶋誠一郎そして狩野亨吉といつた人の名がすぐ思ひ浮かぶ。それに比べると長州出身で人格者と呼べるやうな人を余は思ひつかぬのである。
 今の京大總長は山極壽一である。山極のゴリラや霊長類の脳の進化と食の關係などの著作に影響を受けた余には、久原躬弦と並んで親しい名の京大總長である。ちなみに余が密かに「壽(ことぶき)三兄弟」と呼んでゐるのが、この山極と長谷川壽一、黒田末壽である。ともに霊長類を研究した人類學者や動物生態學者であるが、長谷川は東大で他の二人は京大である。この話を先日京都で、やはり京大理學部生物出の大學教授Tさんにしたら、黒田末壽は余も讀んで感動した『ピグミー・チンパンジー』で讀賣文學賞を取つてしまつたが爲に、却つて其の後研究が空回りしたのか後はパツとしなくなつたといふ。勘違ひとは言ふまいが、若くしての成功が気負ひと過信を生みそれが惡い方に作用してしまつたのであらう。確かに其の後名前を余り聞かなくなつたのはさういふ事情であつたか。さう言へば長谷川壽一にしても本人より妻の眞理子の方が有名だし、三兄弟の中では山極が一番出世したことになる。余が讀んだ範囲で比べると、山極が一番學者らしくなく文章も拙い印象を持つてゐたが、世の中分からないものである。