≪津山藩醫井岡道安とその時代 ― その三≫

四、儒醫をめぐつて

 儒醫とは儒者にして醫者を兼ねる者なのであらうと単純に考へてゐた。たとへば、辯護士の資格と醫師免許の兩方を持つ人と同じやうなものと思つてゐたのである。ところが、調べ始めてすぐにさう簡単なものではないことがわかつてきた。司法試験のよつて立つ法律學も、醫師資格の背景にある生物醫學も、つまるところは近代合理主義を前提として成り立つてゐるのは確かである。しかし、兩者は來歴も體系や論理、對象から用語まで異なるので、普通は學問分野として全く別ものと考へられてゐる。
現代の日本に、そのふたつの資格を併せ持つ人はさう多くはないと思ふが、居たとしてもそのふたつを同じ志から撰びとり、かつその兩方を實際の職業としてゐる人はきはめて少ないだらう。醫師にして大學で法學や政治學を講ずる人はあるかも知れないが、少なくともその人の頭の中では醫學と法學は別箇のものとして了解されてゐるのではないだらうか。しかし、江戸時代には、實際に醫と儒の兩方を生業(なりはひ)とする者が少なくなかつた。何故なら、そのふたつは志においても學問としても密接なもの、と言ふよりむしろ不可分なものと考へられてゐたからである。それを表はす「儒醫一本」あるいは「儒醫兩全」といつたことばが知られてゐる。
その辺の事情を、わたしは『日本儒醫研究』といふ本に學んだ。今囘はこの本の説くところに從つて儒醫なるものを概觀することにしたい。同書は安西安周といふ人の著で、昭和一八年に出版されたものを一九八一年に青史社が復刻した。刊行年から考へて、その後の研究によつて訂正されてゐることも少なからずあると思ふし、時代から來る皇國史觀の押しつけに辟易するところはあるものの、今は安西の言ふことの是非をいちいち檢證はせずに從ふ。なほ、儒學や朱子學についても、いづれ今少し詳しく學びたいと思ふが、今はわたしが持つ常識程度の知識を讀者が共有してゐるものとして話を進めることにしたい。
まづ、「儒醫」といふことばの成り立ちである。儒と醫を兼ねて學び、また職とする者は以前から居たものの、「儒醫」といふことばが初めて意識的に用ゐられたのは寛文の始め、すなはち一七世紀後半の最初の頃、林鷲峰によつてであると云ふ。鷲峰は言ふまでもなく、幕府儒官林羅山の三男で林家を繼いだ春齋である。それまで、武家法度などの文言に「醫陰」として醫師と陰陽師が並び稱せられてゐたのに對し、江戸には陰陽師など居ないのであるから、「儒醫」に改めてはどうかと鷲峰が進言したのである。
これだけ讀むと、何のことかわかりにくいと思ふが、鷲峰の發言の裏には儒者の地位向上の狙ひがあつた。と言ふのも「醫陰」なることばは武家法度に、その兩道の者は輿(こし)に乘ることを許すといふ文脈の中で使はれてゐるからで、空文に等しい「陰」にかへて「儒」とすることで、儒者身分に法的な根拠を得やうとした訳である。實際には儒者も乘輿は許されてゐたし、社會的地位は儒者が醫者よりも上であつた。そのため、醫と並び稱されることの方が儒者にとつてよろしくないとなつて、結局鷲峰の進言は採用されずに終はつた。しかし、鷲峰には儒官といふものが幕府の職制の中であるべきすがたを成してゐないといふ思ひがあつたのである。
意外なことに、林羅山が幕府に出仕するにあたつての待遇は「僧侶」であつたと云ふ。室町時代漢籍の學問が衰へ、四書五経を始めとする儒教の教典を學ぶ者が主に僧侶となつたため、幕府に學問で仕へるのは僧侶の職といふことになつてゐたからである。徳川幕府においても、當初儒官といふ職はなく、羅山を召し抱へるにあたつても剃髪、法體を命じ、僧侶としての法號である「林道春」を名乘つての出仕となつた。役割としては天海僧正や金地院崇傳に近く、地位はそれ以下であつた。
古くは鎌倉幕府において政府の中枢を出家した入道武士が占めてゐたこともあり、武士の政廳に坊主頭の並ぶことは見慣れた光景になつてはゐた。とは言へ、最初建仁寺に入つて漢籍を學びながら、後に佛教を忌み出家を拒んで寺を飛び出し朱子學の研究に没頭した羅山にとつて、その處遇は屈辱的なものであつた。儒教には宗教としての側面も強いから、羅山に限らず儒者の多くは佛教を毛嫌ひしてゐたし、現實の世界に重きを置く儒教が解脱を目指す佛教と相容れないのは當然である。
ちなみに、典醫や藩醫の多くも、特に大奥や藩主の奥方に接する奥醫師ともなれば、剃髪して僧形となるのが普通である。その點では、醫師も儒者も「儒醫」として職を兼ねるにあたつて、髪型の上での問題はなかつたことになる。もつとも、醫者の僧形は奈良時代の「僧醫」の系譜に連なるものかも知れない【注―一】。
ところで、朱子學を奉じた羅山には、自分の得た學識をもとに幕政に儒教的な王道政治を實現させたいといふ素志があつた【注―二】。出身がいかなる階級であれ、科擧に合格して進士となれば中央官僚ともなり得た中國では、政治に關はつて治國平天下を任とすることは、儒學を學ぶ者にとつて當然の志である。さうしたキヤリアパスがない日本で、羅山は將軍の政治顧問的な役どころを目指し、そのためにこそ剃髪にも堪へ忍んだのである。
ところが、家康の時代に幕府に仕へた羅山の當初の仕事は、幕府の書物の管理や外交文書の作成が主なものであつたと云ふ。徳川の天下となつて間もないこの時期、幕府はまだ朱子學が己の權力を正當化し強化するために必須のイデオロギーになるとの認識は薄かつた。羅山は自分の志を遂げるためには數世代かかると踏んで、まづは朱子學の權威を高めるとともに、教育機關の創設に力を入れることになる。それが假初(かりそめ)にも實現するのは寛永七年(一六三〇)のことで、すでに三代將軍家光の時代になつてゐた。幕府より下賜された五千坪を越える敷地に羅山は私塾を創建する。後に官學として昌平黌となる塾であり、當初は上野の忍岡(しのぶがおか)にあつた。
羅山の後繼者の鷲峰が、僧官の官位である「法印」にかはつて「弘文院」の稱を与へられたのは、羅山没後の寛文三年(一六六三)のことである。羅山が長らく望んでゐた儒官としての正式な地位をこの時林家が得たことになる。鷲峰が武家法度の文言に「儒醫」といふことばを入れやうとしたのはその少し前であり、鷲峰の意圖がどこにあつたかをおのづから理解できやう。さらに、寛文一〇年(一六七〇)に、史書『本朝通鑑』を完成させると、その功により羅山から引き繼いだ九百石に二百石を加増されて家禄千百余石となつた。儒醫の文言に込めてゐた儒官の地位向上の意圖は着々と結實してゐたのである。
その後、林家私塾は元禄三年(一六九〇)に湯島の地に移り、翌年には羅山の孫にあたる鳳岡が大學頭に任ぜられる。もつとも、昌平坂の學問所が幕府直轄の官學となるのは、それからさらに約一世紀後の寛政年間のことになる。その少し前、一八世紀中ごろ寶暦の時代から、各藩に藩校の創設が相次いでをり、それだけ見ると昌平黌の官學化はその流れの最終到達點のやうにも見えるが、そもそも朱子學を幕藩體制や封建制の根幹の思想とする趨勢は、林家を筆頭とする儒家の努力と幕府の意向が一致した結果なのである。藩校ができればそこで教へる教官の口も増える訳で、寛政前後から昌平黌出身の儒官が非常に多くなる。儒者の就職斡旋所として、また學問上の最高權威として、昌平黌が儒學者ネツトワークの中心となつていくのである。
江戸時代、幕府の行ふ文治政策に諸藩が追随するのは當然のことだが、藩の方でも藩士朱子學を學ばせることで、家臣團を強化する狙ひがあつたと言はれる【注-三】。戦國の氣風を引き繼いだ「もののふ」は無用の長物となり、能吏が求められるやうになつた時代に學問は必須であり、その需要に應へるのが藩儒だつたのである。
各藩の儒官の職務としては、藩主の御前での講釈とその子弟の教育、すなはち「侍講」や、上級藩士の學問相手や藩校での教授の他に、主家の系譜や年譜、藩史の編纂、藩の書物の管理や法律・行政文書の起草などがあつた。中には藩校の教授から行政官に轉じ、藩政改革の任にあたつて功績をあげ、大目付や家老格にまで出世する者もあつたが、それは少數派であり、多くは教育に從事しつつ、漢詩や書簡を通じて師や各地の儒者と広く交流を持つといふのが、寶暦以降の儒者の典型的なすがたであつた。
話はまたずれるが、享保生れで文化年間まで生きた播州龍野藩の儒官俣野玉川の日記が翻刻されてゐて、それを讀むと藩主の若君に素讀や侍講を通じて教育を施していくものの、當時は幼少時の死亡率が高く、せつかく教へた若君が夭折して嘆く様が綴られてゐる。過保護に育てられるのでからだも弱いのであらうが、傍に居ることの多い儒官が醫師を兼ねて、若君の體調を見られるのであれば、便利といふか何かと役に立つのではないかとも思はれる。もちろん、さうした必要性から儒醫が生まれたのではないが、大名やその家族の生活の中で、奥醫師や儒官との關はりが案外近しいものであつたことはうかがはれやう。井岡道安のすがたも、そのやうな理解の中に置くとわかりやすい氣がするのである。

五、儒と醫の關係

 儒醫の何たるかを説明するつもりが、幕府儒官林家の成り立ちを追ふことにずいぶんと誌面を費やしてしまつた。『日本儒醫研究』に戻ることにしやう。前にも述べた通り、ことばとしての「儒醫」の使用は鷲峰に始まるとしても、實際に儒と醫を兼ねる者は江戸期の前半から少なくなかつた。その現實を踏まへた上で、儒と醫の兼業に對して否定論も肯定論もあつたと云ふ。その論拠から儒と醫との密接な關係が浮かびあがつてくるので、まづはその兩者の意見を聞くことにしたい。
 儒醫批判の筆頭は京都の大儒伊藤仁齋である。その説くところは、儒は「國家」に關はる大人(たいじん)の業であるのに對し、醫は個人を對象とする小人の技であるから、各々本分を守るべき、といふことにある。修身治國平天下を事とする儒者が醫業を兼ねることを批判するのである。ただし、醫者にして儒を志すことは可としてゐるので、儒にして醫に隱れながら、臆面もなく儒醫を標榜することに批判の矢先が向いてゐることにならう。
 二人目は荻生徂來の高弟太宰春臺で、儒は名を求め醫は利を求めるものであるのに「儒醫は醫の事を事とせずして醫の利を貪ぼる、天に逆ふと謂ふべし。たとへ其文章あり以て名を成すに足るとも、何ぞ其小人たるを免れんや」と手嚴しい。
 この兩者の批判に對して、當然反論すなはち儒醫肯定、擁護論も多い。と言ふより、仁齋と春臺を除けば、おほかた儒醫肯定派なのである。それは儒醫であつた人々の名を列擧することでも容易に肯ける。江戸時代の有名な儒者の多くが實は儒醫だつたのである。すなはち、中江藤樹、荻生徂來、三浦梅園、亀井南溟、帆足萬里、山縣大弐といつたビツグネームであり、近くは鷗外が史傳でとりあげた澀江抽斎、伊澤蘭軒、そして小嶋寶素が儒醫であつたし、北条霞亭も儒醫の家に生まれた。また醫者として名の知られた人が儒者でもあつた例としては、「トクホン」の名が今に傳はる名醫長田徳本や永富独嘯庵、香川修庵などがゐる。彼らの儒醫肯定論をみてみやう。
まづは香川修庵から。修庵は儒を伊藤仁齋に、醫を後藤艮山に學んだ姫路の人で、儒醫に關しては師と意見を異にしたことになる。その主張は「儒醫一本論」として知られ、要するに醫は儒に基づくものであり、醫の本道は孔孟の聖賢のことばの中に見いだせるとする。そして、平生の保生修身を醫の王道となし、疾病治療は醫にとつて二次的な所行と考へるのである。身を修めることに重きを置く點において、儒も醫も同じ本源を持つといふことであらう。【この項つづく】
【注-一】「佛法の行はれることようやく盛んなるに從ひて、僧尼の呪符祈祷を以て災厄を祓除するに兼て治病のことに干與することますますその度を加ふるに至り、僧にして醫を兼ねたるものこの期に多し」(『日本醫學史綱要』富士川游著・東洋文庫一九七四)
【注-二】林家三代についての記述は主に『江戸幕府儒学者』(揖斐高著・中公新書二〇一四)を参照した。
【注-三】宇野田尚哉「儒者」(『知識と学問をになう人びと』横田冬彦編・吉川弘文館二〇〇七)所収。