一生分

十二月十九日(水)晴
佐藤優『私のマルクス』読了。これで、生い立ちから中学時代の塾での受験勉強を経て浦和高校進学までを描く『先生と私』にはじまって、高校一年の夏休みの東欧ソ連ひとり旅の記憶を綴る『十五の夏』、高校時代から大学院までの『私のマルクス』、外務省に入ってイギリスで英語とロシア語の研修を受けていた時代の「私のイギリス物語」と題された『紳士協定』『亡命者の古書店』の二冊、そしてモスクワでの外交官時代を中心とした『自壊する帝国』、ソ連崩壊後のロシア人知識人たちとの交流に触れた『甦るロシア帝国』、そして逮捕、投獄の経緯とその中での思索を記した『国家の罠』『獄中記』とつづく、思想的自叙伝と称すべき一連の著作を読み終えたことになる。わたしとほぼ同年代にもかかわらず、その体験や知性は驚くほどに違う。しかし、今回の『私のマルクス』であらためて、氏の神学に対する態度の本気さと知識の深さを知って、これは元外交官が神学をやっていたというレベルではなく、神学を中心とする思想家が何かの弾みで外交官をやっていたに過ぎないことがよくわかった。ここまで突出した人間を外務省が排除しようとしたことも、逆に頷けるようなところがある。それにしても、氏のキリスト教への揺るぎのない信仰や神学に関するさまざまな言説を読むにつけ、ますますキリスト教がインチキくさく感じられるのは何故だろう。神学者が真剣に深く考えれば考えるほど、わたしなどは最初の前提が間違っているようにしか思えなくなるのだ。わたしはニヒリストで懐疑主義だから、佐藤氏ほどの知性や異能を持ちながら神を信じることが不思議でならない。神学者の深淵を覗くような思考や論理の精緻さには敬意を払うけれど、キリスト教の神が存在することへの執着には恐れしか感じない。その点を除けば、自分と同時代でありながら、まったく世界の違う青春群像のように読めなくもないのだが、他の本にくらべ同志社の神学部が舞台であるだけに、耶蘇臭さが充満していて、対置されたマルクス主義の方により魅力を感じてしまう。宇野経済学やマルクスの著作をこの先読むことになるだろう。大学時代に買って、結局最初の巻の途中で投げ出して二束三文で売り払った資本論も取っておけばよかった。キリスト教は嫌いだから、バルトやフロマートカを読むことはないだろうが、ここ最近の読書傾向は完全に佐藤氏の影響圏内にある。ヘーゲル『歴史哲学講義』も、ああこういうところを佐藤氏は面白いと思うのだろうなと思いながら読んだ。