データ貪欲

   医療やヘルスケア関係の開発に関わる方々と話をする機会があった。真面目な研究者なのだと思うが、その発言には思わず耳を疑いたくなるものが少なくなかった。彼ら彼女らは、とにかくデータが欲しいらしい。大量で、かつ他社が持たないデータを持つことを心から希求している感じがあり、自分の行動のすべてがデータ化されていくことへの嫌悪や恐ろしさを感じている私のような人間には理解しがたい、倫理観の欠如のようにも思えた。なぜなら、中のひとりで、生前の本人承認を前提に、死者のDNAデータを収集することを望む女性は、死んだんだから(DNAという究極の個人情報を)利用しても問題ないのではないかと発言したからである。何と言うか、私にとっては決して解決することも理解することもなく、だからこそそれを考えることが生きることの意味かも知れないと思える、「生と死」という哲学的な問題が、もうとっくに解決済みで、人類普遍の価値観の中でものを語っているようなその口ぶりに、私は唖然とせざるを得なかった。こういう人の頭の中では、会社の利益=自分の利益=社会全体への貢献、という独善的な等価式が磐石なかたちで固定しているのであろう。自分のしていることは正しく善であることを信じて疑わず、そういう事態自体を胡散臭いと思う私のような人間を想像し得ない訳で、私とは考え方が全く異なるとしか言いようがない。
 とは言え、データへの執着の話は案外面白いものであった。今彼女が欲しいデータは、人々の歩速、すなわち歩くスピードだという。もちろん、年齢、性別、居住地や収入などと掛け合わせることで、何か面白いことがわかり、それが新たな商品開発のヒントともエビデンスともなるのであろう。データは当然ビックデータになればなるほどいいわけだが、そうしたデータは単独ではなかなか集め得ず、共同や共有という形になる。そうなると、データから読み取れることも共通のものが多くなり、他社との差別化が図りにくくなるのだ。だからこそ、恣意的な仮説を検証するためのデータとしては、多少数は少なくても特殊なデータ抽出が有効ということだろう。年齢による歩速の低下が、生活習慣や収入と相関があるのだとすれば、新たな商品やサービスのアイデアともなり、あるいは歩速と交通事故に遭う確率に関係があれば、保険会社にとっては興味深いデータとはなるのだろう。

 GAFAや世界的な食品会社などが、あらゆる手段を使ってあらゆるデータを集めていることはよく知られている。そのため、他がやっているのだからウチでやっても問題ないだろう、ウチもやらなければ置いて行かれる、という強迫観念もあるのかも知れない。ありきたりの言い方にはなるが、データの洪水の中で生身の人間の生き方が忘れ去られるような気がして、私にはデータのとり方やその内容についての倫理的内省がもう少し必要ではないかと思われるのである。