原敬  

 松本健一著『原敬の大正』読了。原敬はずっと気になっていた。このところ読んでいた明治後期から大正にかけての歴史書において、原の名前は度々登場し、その際に紹介される原の判断や言動が、現在の目から見ても理に適っていたり、きわめてまともなものだったりすることに次第に気づき、興味を覚えたのである。内務大臣や総理大臣を務め政友会総裁だった原が政治史に頻出するのは当然だが、たとえば宮中某重大事件の真相を追う浅見の本にしても、叙述に原はしばしば出てくる。それは原の日記を引用することが多いからである。周知のように原は詳細な日記を残し、当時の政治家の動きを追うのに重要な史料のひとつとなっている。政治家の日記の中で一番引用回数が多いのではないかと思う。その原について、ライバルと目された後藤新平にくらべてもあまり知らないことが自分にもわかっていたから、原についての本を読みたいと常々思っていたところ、松本にこの著作があることを知って読んだものである。

 新聞記者時代の原の論説を丁寧に読み込み、政治家になってからの動向は基本的に日記を読み解くことで時代を追っていくスタイルで、原の生涯と政治思想や主張を知るのにはとても分かりやすい構成である。原敬の入門者にとっては有用な読書だったように思う。

 また、松本のこの評伝によって、近代日本政治史を専門とする坂野潤治という学者が書いたちくま新書の本にみられる、認識の不徹底さといい加減な根拠による原の酷評を知り、大学教授といえども新書などを書く際の筆のすべりの危うさを改めて知った。すなわち、シベリア出兵に関して寺内内閣を免罪して原敬の責任を問うという、原敬日記を丹念に読んでいれば起こり得ぬ謬見である。先日の駄場の本の指摘でも痛感したが、歴史学者、特に近代以降の政治史を専門とする学者というのは自身の思想、或いは家系や出自による偏見とそれに由来する謬見が多い気がする。学術論文であればまだしも慎重になるものの、新書のような気やすい気持ちで書いたものの中では、ふだんは隠していた「本音」が現われ出てしまうのだろう。新書の類を読むことの多いわたしのような一般人は注意すべき点である。もちろん、史料の解読に終わることも多い学術論文の退屈さにくらべ、そうしたわかりやすい断言がある新書などの一般書の方を面白く読んでしまう(=その分売れる)、読み手側の問題もあるのだろうが。

 それと、わたしはやはり大隈重信が嫌いである。そのポピュリズム的政策と何と言っても対華二十一箇条の要求が、この国を誤らせた大きな一因と考えているからである。大隈は原を軽視か敵視をしたのか、ふたりは終に親しく接したことがなかったようだが、大隈の急進的で傲慢な品の無さにくらべ、原敬の現実的で忍耐強い斬新主義には、決して取っつきにくくはないもののどこか威厳と尊敬を感じさせるところがある。暗殺されずに若き昭和天皇を領導していたら、この国はあんなことにはならなかったのではないかと思う人が多いことにも大いに頷ける。そして、今の世にこんな政治家がいてくれたらと思うのにも同感である。もちろん、原にも政策のミスや読み間違いもあっただろうが、引用された日記の文章で知る限り個々の事案に対する原の態度や判断は、広い視野で状況をよく斟酌した上での、倫理的にも論理的にもきわめてまっとうに思われるものが多く、人間としての大きさと魅力を感じるのである。もう少し明治・大正の政治史を勉強した上で、いつか原敬日記を読んでみようと思っている。