キリスト教批判序説

 『ユリアヌスの信仰世界』が伝える、ユリアヌスのキリスト教徒批判をいくつか紹介したい。

 まず、「洗礼」が挙げられる。罪の穢れを一度の洗礼で清めることの効力を疑うのである。入信への象徴儀礼としてではなく、洗礼の実際的な効果を疑問視する訳だが、裸体禁忌によって入浴忌避が普通になるキリスト教徒たちの「不浄さ」が、ローマの人間として許しがたいものに思えたようにも取れ、興味深い。

 次に、「修道生活」も批判される。砂漠の独居型の修道士を念頭において、そうした修道生活を人間の本性に逆らって神の恩寵を独占しようとする行為だとみなすのである。

 さらに、殉教者崇拝を最も鋭く批判する。キリスト教公認以前の弾圧による受難で死んだ者をイエス使徒たちの死の模倣と捉え殉教者として崇拝していくことは、ローマ帝国の側からすれば犯罪者の崇拝に当たり、反社会的な行為だというのである。

 また、旧約で描かれた神の「激しやすさと残酷さ」を指摘もしている。そして、そのことが、彼らの暴力性の根拠とみなすのである。もっとも、イエスや初期のキリスト教が教派間の対立や他宗教を信じる人々への暴力を肯定していないことをユリアヌスは知っていたため、異端や異教に対するキリスト教徒の暴力性、不寛容を批判するのである。

 火葬が一般的であったローマ帝国にあって、キリスト教徒の土葬と市内にも廟を建てることは屍体崇拝とも捉えられ、イエスの復活を屍体蘇生の魔術的儀礼のようにみなして嫌悪してもいたようである。これは殉教者の遺骸崇拝への非難とも関係していよう。

 さらに、教会の救貧活動も布教のための偽善に映ったようだ。施しを受ける方にも、また施す方にもそれなりの満足を与えて信者を獲得することが欺瞞に思えたのだろう。

 こうした、目に見えることがらへの批判だけでなく、そもそもユダヤ人の民族宗教の神であったものを、イエスを介在させて普遍宗教に読み替えようとする作為そのものも批判している。これは現代の我々も常々感じる。すなわち、モーセの神はユダヤ人のみを「選民」として贔屓する神であったはずなのに、ユダヤ人以外が同じ神を信仰することの不可解さである。このヤハウェという神は、気に入らない民族を簡単に殲滅させてしまうし、ユダヤ民族にそれらの民のジェノサイドを命じることもしばしばある。私ならこの一事をとっても到底信じる気になれないのだが、考えてみるとそのヤハウェモーセに示した律法すらキリスト教徒は勝手に解釈して変更してしまっている。そうした態度はユリアヌスにとってはポピュリズムにしか見えず、普遍的な理念や理想を追い求める哲人皇帝としては許しがたいことだったのだろう。

 旧約の神ヤハウェに関しては、そもそもアダムとイヴがみずからの命に背いて林檎の実を齧って知恵を得たことを予想し得なかった点で全知全能ではありえず、イヴを誘惑したとされる蛇はむしろ人間にとって必要な賢慮を与えた点で善だとする。

 新約については記述の矛盾を指摘する。たとえばヨハネ福音書に「神を見たものはいまだかつて存在しない」とあるが、イエスが神であるとするならば弟子たちは神を見たことになり矛盾する。さらに、キリストを神とすることは「私以外の神を崇敬してはならない」というヤハウェの命令に背くことになるし、イエスを神とすることは一神教ならぬ二神教になるのではないかと指摘する。

 最後に、イエスの神性と処女懐胎に関しても虚妄として退けるのである。

 いかがであろうか。実際には考察はもっと精緻で哲学的であるのだが、まるでドーキンスの宗教批判かと見紛えるような、我々にも十分に納得できる切り口からの批判ではないだろうか。もっとも、伝統的な多神教の祭祀や新プラトン主義的な神秘思想を奉じるユリアヌスにも、我々からすれば理解しにくい点が多々あるのも事実である。次回はその点を考えてみたい。