人工知能の向かうところ

 西垣通著『AI原論』(講談社選書メチエ)を読み終えた。何気なくAIについて知りたいと思って手にした本であったが、内容は予想を良い意味で大きく裏切り、AIを軸にしながらも西洋哲学史を総覧したような、実に充実した読書となった。西垣通という人の考え方やその仕事に、今後も注目して行きたいと思わせるものであった。

 著者はまず、AIのねらいは生命知か絶対知かと問いかけることから論を始める。シンギュラリティ仮説などが主張する、AIが人知を超えた絶対知に向かうとする考え方は素朴実在論に基づく科学オプティミストとも言えるものであり、著者はそれを否定する。それも、技術的な否定ではなく、西洋哲学の源流に遡ると同時にオートポイエーシスや自身の唱える「基礎情報学」の観点に立った、きわめて哲学的な考察と論考を展開するのである。

 生命体と機械(人工知能を含む)の違いを自律性と他律性に求め、AIは自律性を持たないことを根拠に、それが人間の脳の代替となり、あるいはそれを越えていくことや「心」を持つことはあり得ないとする。そこまでは、常識的にもそう考えられそうなことではある。しかし、その根拠をカント以降の哲学の主流である「相関主義」の観点から示すとともに、その相関主義を批判するメイヤスーの「思弁的実在論」をも読み解きながら考察していく「手際」は圧巻であった。もちろん、AIの歴史とその挫折についてもきちんと触れられているが、むしろAIを中心とした西洋哲学(最新のメイヤスーまでを含む)の見取り図を与えられたようなわかりやすさがあって、わたしのように専門的に哲学書を読んできたわけではない者にとってはとてもありがたいものであった。

 さらに、AIが絶対知に到達できるとするトランス・ヒューマニズムの源流を一神教の「創造神/ロゴス中心主義/選民思想」に求め、シンギュラリティ仮説などの思想が孕む危険性にも言及する。すなわち、クラウドAIネットの進化により、自律的に見えるAIの処理結果の社会的責任をAIに押しつけつつ、権力者が自分に都合の良いコミュニケーションを操作設計する可能性である。

 このように、背後にある思想を理解しつつ、目前にある問題の危険性を指摘するという、きわめてスマートな警鐘の書でもあり、巻末は「われわれが真に目指すべきは、AIという仮面をかぶった世界支配の野望を批判的に相対化しつつ、人間の生きる力を根源的に高める活路を切り開くことなのである」ということばで締め括られている。「世界支配の野望」とは大袈裟に聞こえるかも知れないが、本書を読めば、それが十分にあり得ることだと理解できる筈である。

 本書で扱われていて興味を持った、メイヤスーの『有限性の後で』を今読んでいるところである。西垣の要約によるその結論には違和感を覚えたものの、本書で展開される論考はわかりやすくきわめて刺激的であり、久しぶりに哲学書をある種の興奮とともに読んでいる。こんなことは30年以上前にドゥルーズを瞠目しつつ読んでいた頃以来のことである。