たくさん嫌い

 少数であるうちはとても好きなのに、多数になると嫌いになることが多い。若くてかわいい女の子は大好きなのだが、それが大勢になるととたんに嫌になる。三人くらいなら、その中の好き嫌いがはっきりして、一番好きな娘が確定すると同時に他のふたりの個性を愛せもする。ところが、それ以上になると、それぞれ良いところ悪いところが重なり合って、その中の誰かひとりを選べないというか、目移りしてうんざりしてしまうのである。だから、昔からおにゃんこクラブとかモーニング娘、AKBや乃木坂的なグループには一切興味を持って来なかった。少女時代も、最近のニジューとかいうのも同様で、まともに見たこともない。特に大人数の女性グループの歌声が嫌いである。さまざまな声質が混じるせいか、皆似たような音になるからである。さまざまな色が混ざり合って結局グレーに見える塵芥のようなものである。グループの中の誰かが嫌いというわけではなく、とにかく「女の集団」が嫌い、というより怖いのであろう。その点ベビーメタルは三人であり、歌は主にスーメタルだから抵抗がないのであろう。

 備前焼も似たような運命を辿った。もともとは、わたしは備前焼のやきものが好きであった。茶碗や食器、花器など、数は少ないが所有していて愛玩の品々であった。ところが、備前焼の町、伊部を訪ねた際に似たような備前焼をあまりにたくさん見過ぎて食傷気味となり、あまり好きなやきものではなくなってしまったのである。そう言えば有田でも似たような感覚があった。窯元の並ぶ町には行かないことにしようと思う。

 最近では映画がそれに近くなってきた。緊急事態宣言時に、アマゾンプライムに加入して以来、ちょっと時間があると映画を観るようになった。最初のうちは、観たいと思っていて見逃した作品が多かったせいか、面白いものもそれなりに多かったのだが、次第に無料(月額料金は払っているが)であるために、たいして期待をしていないものまで暇つぶしに観るようになった。そうすると、つまらないというより、箸にも棒にもかからない愚作、劣作が多くて、少しも楽しめなくなって来たのである。このごろは最初の5分で見るのを止めるものが多くなっている。

 映画館で映画を観ていた時代でも、たまに愚作凡作に当たることはあったが、それ以上に素晴らしい作品に出会う幸せを感じることが出来た。入場料を払うわけだからそれなりに吟味するし、名作と呼ばれるものや好きな監督の作品を追いかけることが多いので、失敗作に遭遇する確率も少なかったのだろう。それが、レンタルビデオやレンタルDVDの時代になると、気安さが加わって駄作を見る確率が高くなったが、映画ごとにレンタル料を払ってネット配信してもらうようになると、むしろ観たかった作品やかつて観て感動した再見したい作品を容易に捜し出せるので、かえってヒット率は上がったように思う。その延長で、それなら定額で見放題の方がよかろうと思ったわけだが、それが現代社会の陥穽だったのかも知れない。90年代のセクシー系女性グループによくあるように、5~6人いるので揃っていると奇麗な女性ばかりに見えるが、個々をよくよく見てみると少しずつ難あり物件だったりするのと同じで、観られる作品は多いものの、その分嵩を増すために何でもかんでもが入っていると見た方がいい。しょせんビジネスは玉石混交、質ではなく量で勝負の世界なのである。その人だけで美しく魅力的であればセットで売り出すまでもないのと同じ論法である。これでは「無料」と、「数」の論理による選好で、時間を無駄にするばかりだと思い至った。AIやビッグデータに踊らされる有象無象になりたくはないし(ある程度はそうならないわけにはいかないにしても)、自分の審美眼や批評性を再整備したい気持ちが強い。

 愚作ばかりに出会って映画そのものが嫌いになりかけたので、アマゾンプライム会員から脱退しようと思っている。配達が早い特典はあるが、まあなくても困りはしない。やはり映画館に足を運んで、料金を払って観るに越したことはないのである。今年は少し、わたし本来の天邪鬼性を取り戻して、いろいろ時代に逆行しようかと思っている。アマゾンプライムを止め、ネットのニュースを見ないようにして、新聞を読もうかと思っている。また、出来る限りグーグルやウィキペディアを引かないように心掛けるつもりである。それが何に由来し何を目指しているのかはここでは書かないが、これも「還暦小僧の新たなる出発」のひとつの形である。