新聞派

 新年になってから、ネットニュースを(新聞社のニュースサイト含め)見ないことにした。また、ユーチューブも何かのリンクでない限り見ないことにした。そして、新聞を読むことにしたのである。朝起きて顔を洗ったら、まず近くのコンビニエンスストアに新聞を買いに行く。朝食を取りながら新聞を読み、電車に乗っていても書斎にいても、スマートフォンやコンピューターでインターネットのニュースは見ない。やってみると、これが実に気持ちがいい。時間に「歯切れ」が出て、だらだら感や「流され感」がなくなる。

 新聞はとりあえず朝日を読んでいるが、ときどき日経やサンケイ、読売なども読んでみようと思う。今日の朝日に、論説委員の記事を三時間かけて赤を入れて読み、徹底的な批判文を送ってくる「保守派」の人の話が出ていて、その人は蕎麦屋でサンケイを読むとホッとするのだという。その意味で、わたしも「敵」であるサンケイを読んで、批判精神を錆びさせないことも必要だと思うのである。ただし、わたしとて朝日信者ではない。駄場裕司が指摘するように、戦前戦後初期を通して最も政府寄りだったのは朝日であり、保守本流あるいは玄洋社系の人脈が色濃く入り込んでいたことを忘れてはいけない。また60年当時、日米安全保障条約に肯定的だったのは朝日であり、反対だったのはサンケイだったことも忘れてはいけない。

 しかし、少なくともネットから新聞に「読み脳」を切り替えたところ、思考や視野に広がりを感じているのも確かである。ネットでも、ときにこれをタダで読めるのかと思うほどの、記名による興味深い論考が載ることはあるが、それに行きつくまでに多大に無駄な時間を費やしている感がある。しかも、ネットで見た記事の内容というのは、驚くほど頭に残らないのである。そして何より、その記事のページを開くことを狙った興味本位の見出し文のいやらしさに常々腹立たしさを感じていたので、比較的モデストな新聞の紙面の見出しの大きさや位置による階層性は、ある意味恣意的ではあるものの、わかりやすく一覧性があり、むしろ読み手の「選択」の幅が大きいことがわかる。そして、新聞というメディアが持つ社会事象に対する網羅性は、改めてネットの情報に頼っていた自分の視野狭窄を気づかせてくれるものであった。

 今後また在宅勤務が多くなるようになれば、朝の散歩を兼ねて新聞を買いに出ることがさらに増えるだろう。少し前まで、駅のキオスクに新聞を買いに来る老人の姿を前世紀の遺物のように思っていたが、今やそれが我が身である。前世紀の遺物でもいい。というより、還暦を迎えて生活を昭和にリセットしたいという気持ちが強い。還暦小僧は天邪鬼で反時代的なのである。