寛容について

 TASCマンスリーという雑誌に、国際基督教大学の森本あんりという人(教授)が寛容さに関する記事を寄せていたのを読んだ。その中で同性愛者は地獄に落ちると書いたラグビー選手がオーストラリア代表から外されたことについて、こうした措置をとったそのラグビー協会は不寛容ではないかという議論をしている。それはちょっと違うのではないかとわたしは思う。

 森本の議論は、敬虔なキリスト教徒には同性愛を認めない一派もあり、その宗教観に忠実なみずからの考え方を表明したに過ぎないものを、それを発言しただけで非難し処分をするというのは、そもそも同性愛を拒絶しないという寛容さを装っていながら、実は不寛容なのではないかということである。森本は件のファラウという選手の発言の「酔っ払い、同性愛者、姦通者、うそつき、姦淫した者、盗っ人、無神論者、偶像崇拝者」は地獄に堕ちるという部分を引いて、そうした発言に不寛容な態度をとったラグビー協会批判をしている。一見ファラウ擁護にも聞こえるが、ファラウの意見に同意しているわけではないらしい。

 列挙されたものの中には確かに文句のつけようのない「犯罪」も含まれているが、わたしには少なくとも5つくらいは該当するものの、神も地獄も信じていないからそんなことを言われてもまったく平気である。その意味で、口が滑って同性愛者をその列に加えてしまったというのであれば、百歩譲って非難はされても代表から外されるのはやり過ぎと思うかも知れない。しかし、このファラウ、常々同性愛を非難するような言動を繰り返していた確信犯だから、イエローカード2枚のレッドカードと考えれば、そもそも寛容・不寛容の議論に載せるべき問題ではないのである。

 もちろん、森本はこのことだけでなく、ある宗教の教義や規則に忠実で敬虔な者が、その教えを発言することも許されないのかと問うのである。わたしは同性愛者を自然に背くものとして許さないという発想自体をまったく理解できないが、だからといって「同性愛を否定する者は地獄に堕ちる」とは絶対に言わないし、思いもしない。地獄の存在を信じていないのだから当たり前の話である。同性愛を断罪する人には嫌悪を覚えるが、だからといってそういう人がいることに我慢がならないということはない。それでいいのではないか。つまり、逆の立場であっても、同性愛は嫌だが、それを許さない、地獄に堕ちるなどといわなければいいだけの話ではないか。それを敢えて発言する人に、寛容の議論は成り立たないとわたしは思うのである。

 一方で、森本の記事にはこれとは別に興味を引くことがらも多かった。日本人は日本人が宗教的に寛容だと思っているが、決してそうではないこと。様々な民族・宗教が共存している多様性のある国や社会の方が他の宗教やそれにともなう道徳や慣習にも寛容であり、また一神教より多神教の方が寛容というのは幻想であることなど。均一・同質で宗教的な多様性の少ない日本は、多神教的かつ宗教的ではないにもかかわらず、多民族や他の宗教に対する寛容度がきわめて低いのだという。

 これらの事実は、我が身を振り返って反省すべき点ではあろう。異質な人たちを気に掛けない、関心を持たないといったことは寛容さとは別のものであるという認識を含め、考えるべきことは多い。ただ、確かに寛容さが絶対善であり、不寛容は悪とすることは不寛容ではないのかという疑問もなり立つわけで、確か森本も似たような議論(寛容さをめぐるジレンマ)を展開していたようだが、詳しくは覚えていない。こうなると、寛容さといい加減さを混同してはならぬという非難も聞こえて来そうだが…。