倫理的な病

 今回の新型ウィルスについて、それが人類に与えた意味についての哲学的な考察にまだ寡聞にして接していないが、わたしなりに感じていることについて少し述べてみたいと思う。

 今日NHKの番組で今回のパンデミックの病、というかこのウィルスのネーミングが重要だと言っていた。古館伊知郎が出ていたのですぐに消してしまったが、確かにそのとおりだと思う。ペストやコレラはそのネーミングからしインパクトが絶大である。それに比べると新型コロナウィルスやCOVID19という言い方は、何ともまどろっこしく気どった言い方に感じる。O157と同じで、人間味を感じない。狂牛病とか鳥インフルエンザの方が、逆説的だが「人間的」であるし、サーズやマーズ、エボラ出血熱なども名前からして恐ろしい。武漢ウィルスとか中国ディジーズも正直言って迫力がない。むしろ、トランプにあやかって「ジョーカー」にした方がおどろおどろしいのではないかと思う。

 駄弁はさておき、今回の病気で特徴的なのは、無症状ないし軽症の感染者がきわめて多く、それらの人たちが普通の生活をするだけで感染を拡げてしまう点にある。通常感染病は、罹った人も重篤化するから、たとえ他人に染したとしても、本人が「被害者」であることによって免罪を得られるようなところがあった。ところが、今回の場合、自分は何の被害を受けていないのにもかかわらず、人に感染させて被害を拡大させるという、明確な「加害者」の立場に誰しもがなり得るという点できわめて特殊である。人類史上初めてのことかも知れない。

 ところが、そもそも人間というのは、生きているだけでそれなりの「加害者性」を持たざるを得ない存在ではないのか。ひとりの人間の幸福はその背後にひとり以上の不幸によって支えられている可能性、というか事実が厳然としてあると思われる。格差社会とか資本主義とか、それはそれでそうした事態を助長しているとは言え、それとは別次元で、人間とは被害者であると同時に常に何某かの加害者性を持つものとして定義ができると考えられるのである。仏教の、因果や因縁という概念の中には、そういう考え方が含まれているのではないかと思う。生きているだけで、無垢な存在などではあり得ず、他者を傷つけその犠牲の上でしか生きられぬ存在なのだという透徹した認識は、おそらく多くの宗教の根源に存するのではないかと思う。だからこそ救済が求められる訳であり、他方でその現実を踏まえて倫理は成り立っているとも考えられる。

 とは言え、現代社会の個人主義的な生き方の中で(ちなみに、反個人主義というべき伝統的な家族主義は、こうした個人というか人間存在の加害者性を隠蔽する装置としても働いてきたのではないかと思う)、人がそうした思いを実感として抱くことはきわめて稀であろう。よほど倫理的ないし哲学的に自己の存在を厳しく査問しないかぎり、そうした考え方に思い至ることの方が珍しい。にもかかわらず、今回のウィルスは人々にそのことを認識させる可能性がある。わたしが倫理的な病と呼ぶ所以である。人は常に他人に危害を加える可能性があるのであり、そのことに誰もが気づいたとすれば、人びとの感じ方や生き方、ひいては社会制度に変化をもたらす可能性がある。

 スーザン・ソンタグが癌について『隠喩としての病』で敷衍したような議論を、誰かが今回のウィルスに対してしてくれることを願ってやまない。(『隠喩としての病』をこの機会に読み直そうと思ったが、架蔵しているはずなのに見つからなかった。他日を期したい)

 

食事

朝 プチトマト。おにぎり(アミ佃煮)。珈琲。

昼 ほうれん草の胡麻和え。プチトマト。牛肉炒め(牛肉、アスパラ、チクワ、しめじ)。ご飯。

夕 サラダ(レタス、ベビーリーフ、パセリ、ミニトマト)。鯛の湯引き(柚、輪島の塩)。白ワイン(パスカル・トソ/シャルドネ)1杯。ミラノ風ポークカツレツ(豚肉ロース、チーズ、卵、レモン)、ベビーリーフ、、マッシュルーム添え。オリーブオイル、バルサミコマスタード。赤ワイン(バラカンス・トソ)1杯。

 

 本日朝から車で出勤。8時半出社。午前中になすべきことを終え、会社に居ても気分がわさわさして何だか落ち着かないので、昼前に退社して午後在宅勤務。今は7時に起きているのだが、今日は以前と同じ6時起きたら眠くて終日調子が出なかった。やはり8時間寝ないといけないようだ。緊急事態宣言が解除になっても、在宅や時差通勤を使って、自分の生活リズムで仕事をした方がはるかに生産性が高いことを確信している。