日本語からの哲学

 『日本語からの哲学』という本【1】を読んだ。

 「です・ます」調で書いた論文が査読で撥ねられたことに端を発して、なぜ論文を「です・ます」調で書いてはいけないのかという問いから始まった思索の成果である。それだけ聞くと、世間的常識に対する反感やルサンチマンにもとづく、『うるさい日本の私』における中島義道のような迷惑系哲学に思われるかも知れないが、そうではなかった。

 著者である平尾昌宏はまず、「論文にです・ます体を用いてはならない」或いは「論文はである体で書かねばならない」という規範の根拠を問うことから始める。規範の根拠のあり方として、(A)手続きによって定められた実定的規範、(B)倫理的・道徳的規範、(C)習慣や因習などによる社会的規範、の三つがある中で、このことは倫理的規定ではありえず、また学会の投稿規定にそうした規約が書かれていない以上、(C)としか考えられないとする。したがって必ずしも従わなくてもいいことになる。

 そうは言っても、著者自身「です・ます体」にどこか特別な性質を感じとっており、論文に使うべからずという規範を成り立たせている何かしらの理由があることを認めざるを得ない。そこで、哲学的な考察を始める前に、国語学・日本語学【2】の専門家たちの見解の検討を行うことになる。

 ところが、国語学においても文体論として「です・ます」体について論じた研究は見当たらないのだという。いわゆる「言文一致」との関連で歴史的な考察は積み重ねられてはいるものの、論者により解釈や評価は分かれるし、文章語としての「です・ます」体を正面から考察したものもないという。

 結果として、言文一致に関する諸説を検討したうえで、平尾は「です・ます」は決して話し言葉をそのまま文章語化したものではなく、新たに創りだされた文章語であったことを確認する。字義どおりの言文一致はそもそも不可能であり、明治期にその名のもとで目指されたのは、それまでの文語体に代わる新たな文章語の創出だった。一見「話し言葉」に見える「です・ます」体に、たしかに「効果」としてはそういう側面があるにせよ、それは本来の「機能」ではないと考えるのである°

 さらに、「です・ます」体が敬語であるがゆえに論文などで忌避されるという説を取り上げ、現在の敬語論を子細に検討して、「です・ます」は敬語(丁寧語)ではないという結論に達する。これも「です・ます」体が「話し言葉」であるかのような効果を与えるのと同様、丁寧な印象(すなわち効果)を与えはするが、それは本来の機能ではないというのである。そこに至る著者による敬語論諸説の紹介と分析の手並みは見事で、その方面に詳しくないわたしのような者にもわかりやすく、とても興味深いものであった。

 その後、最近の日本語学で広まっているという「モダリティ論」や「待遇表現論」を検討することで、「です・ます」体が「純粋待遇性」を持つことを発見する。すなわち、相手(読み手)への純粋な意識・顧慮が「です・ます」体の本質的機能だと考えるわけである。ここから、「待遇性」や「人称的構造」といった概念を手掛かりに、「である」体との原理の違いを明らかにしていく。

 その過程は精緻であり結果として複雑なものとなるから、要約はわたしの手に余るのでここでは省くが、「である」体と「です・ます」体のありようを著者・読者が単数か複数かによってそれぞれふたつに分割したうえで、です・ますの特徴を著者と読者の非対称性に求める。要するに、「です・ます」体は二人称の読者を眼前に据えた文体であり、「他者」の存在が際立った「語りかけ」であるのに対し、「である」体は他者としての二人称を排除して、著者を含む一人称複数へ取り込む「述べ」の文体であるとするのである。

 この結論じたいは、さほど驚くほどのことではないのかも知れない。しかし、こうして抽出したそれぞれの特徴から「である」原理と「です・ます」原理とを定立したうえで展開される考察は次第に「哲学的」な色合いを帯びてくる。著者自身が言うように、まだ「まとまっていない」未消化な思いつきに類するものも混ざるが、このふたつの原理の相違を考察することで、また新たな世界が見えはじめるのである。人称について言えば、一人称、二人称、三人称という三つの人称があるのではなく、人称の関係から成る「である」原理と「です・ます」原理というふたつの異なった世界があるということになるし、主観という概念を導入すれば、前者が「共同主観的」なのに対し、後者は「間主観的」なものになる。また、それぞれの原理がかたち作る世界の差異を表現するのなら、「である」世界は〈あなた〉のいない世界、「です・ます」世界は〈あなた〉のいる世界となる【3】

 このふたつの世界の決定的な差異から、「正義とケア」との類似やアナロジーを考えてみたり、「科学」も「宗教」も二人称を排する点で同じ「である」原理に属しているとみなしたりと、思索を広げていく。さらにマルティン・ブーバーの「我と汝」について、これらの原理から批判的な再検討までしている。

 また、倫理学における「不完全義務」という古い概念と「愛とケア」との関係について思いを巡らし、その理解のためには「です・ます」原理をもとに考察することが有効ではないかと示唆している。

 一方で、予想される反論をあらかじめ想定して、それに対する回答を用意するという周到さも見せている。たとえば、この「である」と「です・ます」原理の考察は日本語のみに当てはまるのではないかという反論には、たしかに日本語から発想してはいるが、人称という普遍的な概念を通して構造化したものだから、日本語の枠を越えた「日本語からの哲学」になり得るのではないかと問い返す。そして、平尾と同様に日本語を論じた哲学者や倫理学者の姿勢を、①日常語を対象にしたものか、②やまとことばを対象にしたものかに分け、それぞれに〈A〉日本志向と〈B〉普遍志向があるとしたうえで、自分は①―〈B〉の方向性に属するとする【4】。すなわち、「日本語についての哲学」ではなく、「日本語で哲学すること」を目指しているのである。ただし、その系統の論者が日本(語)礼賛に至ることが多く、それらと差別化するために「日本語からの哲学」というタイトルにしたのだという。

 まだ発展の余地のある行論も少なくないが、それでも著者の今後の著作に注目していきたいと思わせる「冴え」があるように思う。好著であり、わたしの拙い紹介に焦れるか興味を持った方には一読をお勧めする。[了]

[注釈]

【1】平尾昌宏著、晶文社刊、2022

【2】この両者の違いに関する平尾の説明を引いておく。「国語学は近代の学問だが、江戸時代に勃興した国学の系譜を引いており、大雑把に言えば、日本語(国語)に内在的な立場を取る。つまり、外国語を前提としない。それに対し、比較的近年に発展してきたのが日本語学で、こちらは『伝統的文法とは異なり。日本語を世界の言語のなかの一つとしてとらえ、言語学の理論に基づく論理的な文法論を展開した』ものである」

【3】「です・ます」口調もやはり「あなた」に向かって話す点で同じであり、そこには押しつけがましさが伴うのだろう。関西の芸人の使う「ありますやん」とか「ですねん」に感じていた違和感の正体は、「です・ます」という文末辞にさらに文末辞を重ねることで生じる「粘着感」であることに気づかされた。

【4】〈A〉日本志向―①日常語対象の論者として長谷川三千子加賀野井秀一小浜逸郎、―②やまとことば対象として、竹内整一、山本伸裕。〈B〉普遍志向―①日常語対象として、清水富男、市川浩、②やまとことば対象として、坂部恵木村敏を挙げている。