和こりごり

 日曜はお初香であった。コロナ明けでもあるし、依頼された原稿の締め切りも迫っているしで、本当は行きたくなかったのだが、前々から決まっていたことだから仕方がない。何より着物を着るのが面倒だし、袴を穿くのも久しぶりで心もとない。香席で筆者をするのも面倒である。渋谷駅の工事のため、湘南新宿ラインで新宿まで行き、山手線内回りで原宿に戻るのも苦痛であった。コロナの後遺症でやたらと眠くなるのにも困った。とにかく、組香一席に筆者として出て記録を書き、薄茶の客に呼ばれて花びら餅で一茶の後、鑑賞香を聞いて懇親会には出ずに早々に退散した。先生に香木を貰ったのは嬉しかったが、さっさと帰って急いで着物を脱ぐ。和装はその後始末も大変なのである。

 自分の飽きっぽさに改めて驚くしかない。香木を集めるのは楽しいが、香道そのものに対する興味は失っており、何より家元制の弊害とその拝金主義や権威主義に嫌気がさしていて、家元制をとる日本の芸事すべてに嫌悪感を覚える。そして、着物が苦痛である。モーツァルトの時代の貴族のあの変な恰好のように、歴史的なイベントなどでコスプレとして着るならまだしも、日常で着物を着るなど狂気の沙汰である。この日も正味七時間着ていただけで、足腰が痛くなってしまった。「和」は本当にこりごりなのである。

 着物は2011年から15年の間に狂ったように作ったり、古着を買ったりしたのが、今考えると本当に頭がおかしかったとしか思えない。数えてみたら、袷の長着が6枚、単衣が3枚、絽が2枚、羽織が絽1枚と袷用2枚、それに袷のアンサンブル(長着と羽織のセット)が4組(黒紋付を含む)、袴は4枚、帯も15本あった。古着で買ったものなどはもう二度と着ないと思うので、二束三文覚悟で古着屋に売るつもりである。ただ、和装は着物だけではすまない。雪駄3足、草履2足、下駄2足、和装用鞄3つ、巾着袋4つ、羽織紐は11組、コートは角袖1着、トンビ1着である。とんでもない散財をしたことになる。コロナで茶会や茶の稽古がなくなり、文楽を見に行くこともなくなったので、香席以外に着ることがなくなったから余計である。確かに、コロナ前は着物で出かけることも少なくなかったが、コロナで着なくなるのと同時に、わたしの「和疲れ」「和離れ」「和嫌い」が進んだので、すっかり興味を失ってしまったのだろう。

 まあ、またいつ和ブームが再開するとも知れないが、この先歳をとれば和服でお洒落をする気などますます失せていくのではないだろうか。とは言え、昨日も初釜なのか、着物を着た夫婦を何組か見かけたが、正直言ってそうした着物姿の旦那衆にくらべてわたしの方が遥かに格好良いとは思うのである。地味な色合いの着物姿が多い中で、わたしの着物は自分で言うのも何だが、かなり粋筋のものだと思う。それでも、着物で目立とうとか、格好つけたいという意欲じたいがなくなっているのだ。

 帯を結ぶのはもう苦も無くできるし、袴も何とかなるから着ること自体はさほど苦ではないのだが、支度と着た後の始末や片付けに時間がかかるのが、やっぱり面倒くさいのである。