大学ノート

仏前読経問題を考究するため仏教思想の勉強を進めてゐる。『読経の世界』と末木文美士の『仏典を読む』、それに岩波文庫のゴンダ著『インド思想史』を併行して読んでゐる。図書館で借りた『読経の世界』は面白いので結局ネツトで古本を注文した。見えて来たのは、まず仏や仏像そのものへの崇拝、信仰は仏陀本来の教へとは異なるものであること。そして、仏像崇拝の背後に大乗仏教誕生ともつながりの深い仏舎利信仰や仏舎利を納める塔(ストウーパ)信仰があることや、リグヴエーダが神々への賛歌と呼ばれるやうにもともと古代インドでは経典は神を讃へるものであつたことなどで、仏像の出現と大乗経典の編纂が時期的に近いことを考慮に入れるべきであることも分かつて来た。仏舎利塔への読経が行はれてゐたかだうかを知りたいところだが、今のところさうした記述には出会つてゐない。
それともうひとつの方向として、音声やことばの霊力に対する古代的な信仰と倶に、正しい音を正確に伝へやうとする、権力とも結びついた文化継承の意思のやうなものに気づかされた。中国仏教において梵語の音を、そして日本仏教において漢訳経典の正しい音を伝へ残さうとする強い意志と其の伝統は、今日のわれわれには想像できぬほど強固なものであつたのである。暫く禅宗系の読書を中断させる程、この方面の事象は興味深いことばかりである。
ところで、勉強を進める上で机上に古いノートを置いてゐる。大学時代に「東洋思想」の授業に使つたノートで、要点を割りにゆつたりと記してあつた為に其の後の読書の際などに余白に書き加へて行つて、なかなか便利な参考書のやうなものになつたのである。既に三十年近く昔のノートでそれなりに古びてはゐるが、万年筆で書き込まれた各頁はしつかり読み取れるだけでなくさらに書き加へても何の問題もない。大学生協で買つたごく普通の大学ノートだが、これがルーズリーフのノートやリング式のノートであつたとしたら、此処まで持ち続けてゐたかだうか。「大学ノート」には、勉強した際の濃密な時間が其のまま保存されてゐるやうに思へるところがあるからこそ今まで大事にして来たのだと思ふ。そもそも、大学ノートにものを書き込む時には、僅かではあれ衿を正すやうな気持ちが働くのではないか。教養主義精神主義と嗤はれるかも知れぬが、「ノート」といふ言葉には言ひ知れぬ魅力といふか、ときめきのやうな気持ちを覚へて来た。ましてや「大学ノート」には最高学府に学ぶ誇りと喜びが伴ふから、長く大切に保持する気になるのである。講義や書物から、知るべき教養や知識のエツセンスを写し取つて行く事のわくわくした気分と、書き込まれた知識が我が物になつて行くかのやうに思はれる晴れがましさ。「勉強」の為には極力万年筆を用いて筆記したいものであり、其れもまた大学ノートでなくてはならない理由となる。と言ふのも、大学ノート以外の現在普通に売られてゐるノートは、万年筆で書かうとすると裏に滲んでしまふからである。通常わたしはメモや原稿の下書きにはゼブラ社のサラサ0.5ミリのブルーブラツクを筆記具として用い、ノートも大学ノートではない軽いものを使つてゐるが、其れに万年筆を使ふと滲むことに気づいて、昨日わたしは新たに一冊大学ノートを購入した。これまでも、メモ以外のテーマを定めたノートには「廃仏毀釈」にしても「参禅の系譜」にしても、いずれも大学ノートを使つてゐたが、改めて大学ノートの良さを認識した感がある。先の東洋思想のノートは既にびつしりと書き込まれてをり、また実質仏教のことしか書かれてゐないので之を「仏教I」とし、今後の読書で得た要点は此の新しい「仏教II」のノートに記してゆくつもりである。
【補足】わたしの取つた「東洋思想」の講義を担当されたのは恐らく福井文雅教授であつたと思ふが定かではない。一年の教養課程で取る授業だから平川彰教授ではなかつただらう。平川教授の退官最終講義の立て看板を見た記憶はあるが、其れを聴きに行つたかだうかさへ思ひ出せぬ。いずれにせよ、遠い昔の話である。