少欲知足

昨日銀座で得意先の方々とわたしの会社の営業とで会食があつた。和食のコースで、普段から粗食にしてゐるわたしにはとても食べ切れなかつた。同席した人々は酒もたくさん呑み、そして料理も平らげてゐた。もともとわたしは胃腸が弱い方で食べ過ぎると覿面に腹を壊す。そんなこともあつて、運ばれてくる料理も少しずつ残し、デザートの冷たいアイスクリームは手もつけなかつた。
ところが、驚くべきことに彼らは其の後中華料理屋に移動したのである。お客の手前わたしも付き合ふ。餃子二人前、炒飯、焼き蕎麦、麺それぞれ一人前を五人で分け合ふのだが、わたしには殆ど口に入らなかつた。しかも麺のスープに大蒜が効いてをり、わたしは苦手なのである。
彼らの胃袋に敬意を表しつつ、わたしはいつ腹が痛くなるか気が気ではなかつた。もつとも、昔からかうだつた訳ではない。腹が弱いのは生まれつきだが、若いときはどちらかといふと大喰ひの方だつたのである。ただ、其れも「飢ゑ」に対する「食欲」であつて、所謂グルメや喰ひ道楽とは違ひ、食べる「こと」は大事だが、食べる「もの」には拘りがない方だつた。満腹になればいいのであつて、食べ物に拘りたくないといふ気持ちもあつた。世間の大勢に背を向けたいといふひねくれた思ひもあつたし、自分にも由来の知れぬ、食べること自体への躊躇ひすらあつたからである。
酒を呑まなくなつたせゐもあつて、其の傾向はさらに強まり、今のわたしに「美食」は眼中にない。たまたま出会つた食べ物をとにかく有難く美味しく戴く、さうありたいと思ふだけだ。そして、永平寺で食べた食事の美味しさを思ひ出す。質素だが、からだに染み渡る旨さであつた。要するに「何を食べるか」が美味しさを決めるのではなく、「如何に食べるか」が大切なのである。
食べものへの執着が弱まるに連れ、例へば金銭欲とか権力欲、名声欲といつたものも最近とみに弱まつてゐるのを感じる。全くないとは言はないが、さうしたものを得ても得られなくても、心が乱れるやうなことは少なくなつたやうに思ふ。いや、もつと言へば、快楽そのものへの欲望が減少しつつあるのである。酒はもちろん、ゴルフをやりたいとも思はないし、高価なレストランで食事をしたいなどとは全く思はない。口には出さないが、会食でなされる会話の話題の殆どが、今のわたしには興味のないことなのである。こんな人間を接待に出すのもだうかと思はれるが、もちろんわたしはニコニコと話を聞くだけで、だからと言つてゴルフをする人たちを軽蔑するわけではもちろんない。ゴルフの楽しいことはわたしも知つてゐるからである。ただ、もう自分でそれをやりたいとは思はなくなつたといふだけなのである。
佛さまの教へに従ふだけでかうも人は変るのである。まだまだ修行の道のりは長く、また終はりのないものだと分かつてゐても、佛さまの教へである少欲知足に少しでも近づけたとしたら嬉しい限りである。
まあ、ブログをやつてゐる時点で、「自己顕示欲」は健在といふ点は認めざるを得ないのも確かではあるが…。