玉音に思ふ

天皇陛下のお言葉を端坐して拝聴す。正に有難き玉音なり。内閣といふ世俗権力に、此の国難を乗り切る能力も気概も覚悟もない事が明らかになつた今、国民統合の権威象徴として自らの存在を顕現させ給ひし陛下の大御心を我らは深く慮るべし。
無力な政府に期するよりも、我々が今なすべきなのは衷心より神仏に祈ることではないだらうか。陛下のお言葉は図らずも余をして此の事に思ひ至らせた。此の倭の国を元の平安に戻すには、もはや神威仏恩に縋るより他ないのである。旧官幣大社二十二社国難鎮撫を天つ神国つ神に祈念してゐるのだらうか。旧官制大寺や密教本山寺院は鎮護国家の加持祈祷を今こそ行ふべきであらう。
元寇に匹敵する此のいまだかつて有らざる国難に対し、近代の理念、制度、科学だけで解決を図るから上手く行かないのだ。我が国には天皇が在(いま)し、八百万の神々が在(いま)すのである。古来から続いた神々といふ名の権威を我々は忘れかけてゐるのではないか。神々を敬ひ恐れる心を失ひかけてゐるのではないか。それが原因とは言はないが、今度の災害は少なくとも其の事を思ひ出す契機にはなるであらう。だから石原都知事の発言も、もう少し知恵と言葉が足りてゐればあながち間違ひではなかつたのである。ただ赤心から、苦難の最中に在る人々の一刻も早い平穏な生活への復帰と、原子力施設で起りつつある事態の収束とを祈るくらゐの事しか出来ない我々といふ存在の無力さに謙虚になつてこそ、各自がせめて人のために出来る僅かなことを行へるやうになるのではないか。
と同時に、現憲法下では勅命で奉幣使や宣旨を出す訳にも行かないのだから、日本国中の神社仏閣は自ら進んで、みちのくの荒御霊を鎮め、苦しむ衆生を救ひ如来菩薩の慈悲を請ふための最大限の努力、即ち祈念祈願をなすべきではないのか。民間のボランテイアの救援活動はもちろん、営利企業義捐金援助に比べてさへ、全く出遅れたところかその気配もない宗教界の、それがせめてもの義といふものではないか。下手な募金や救援など要らぬ。宗教本来の持つ祈りといふ力を忘れて何が神道、どこが仏教なのだ。それさへ出来ないやうなら宗教法人を名乗る資格はない。
神様仏様、福島原発に現はれし荒御霊の怒りを鎮め給へ。地震津波放射能に苦しめられし衆生を救ひ給へ。此のうまし国の民に此の先も幸ひ多き安らかな生活を与へ給へ。