不都合な真実

驚くべき事がわかつて来た。
三月十六日にわたしは今こそ此の国難に対して全国の社寺が攘災護国の祈りを捧げるべきであると書いたが、其の後神社が何を為してゐるのかを調べるうち、極めて作為的としか解釈できぬ或る動向が浮かび上つて来たのである。端的に言つてしまふと、原発事故について極力触れずに事を済まさうとする勢力の存在といふことである。其の構図は要するに、
<神社本庁神道政治連盟自民党原発推進派議員―東電及び原子力業界(東芝・日立など)を含む産業界=経団連>
といふことにならう。
事の発端はかうである。天皇の言葉を聞いてわたしは図らずも、平安時代以来かうした難事に当たつて朝廷が奉幣使を派遣して祈願をした勅祭社のことを思ひ出した。所謂二十二社と呼ばれる由緒正しい神社のことで、先日行つたそのうちのひとつである上賀茂神社での、三月十三日といふ早い時期に行はれた「放射能洩終息祈願祭」に感心したばかりである(3/27の日乘参照されたし)。それもあつて、その他の神社が他にどのやうな祈願の斎行を執り行つたかを知らうとネツトで調べ始めた。
二十二社のうちでも特に上位にランクする「上七社」には伊勢神宮や石清水八幡、賀茂や伏見稲荷春日大社など名だたる古社が並んでゐるが、皆ホームページを持つてをり、平野神社を除き今回の災害被災者への見舞文を載せてゐる。そして、伊勢神宮春日大社では毎朝の斎行に際して災害復興を祈る祓詞をあげてゐるといふし、松尾大社でも三月二十一日に同じく復興祈願祭が行はれてゐることが知れる。
思ひがけず多くの神社で祈願が行はれてゐることに安堵しかけたが、一方でどの神社でも斎行の名が「復興祈願祭」であることが奇妙に思へた。そして、さらに詳しく見ていくうち、ホームページの見舞の文章には、地震津波の被災者への言葉や復興への願いはあつても、原発事故への言及が、上賀茂神社を例外として全くないことに気づいてしまつたのである。
これはどういふことであらうか。わたしとしては、神社が神々に祈るべきなのは、今まさに進行してゐる此の放射能漏洩といふ大災害の終結だと思へるのに、実際に祈られてゐるのは、まるで原発事故などなかつたかのやうな「復興」祈願ばかりなのである。
実を言ふとわたしは、勅祭二十二社のうちホームページを見ても今回の国難に対する対応が明らかでない神社に対して祈願の内容を問ふ次のやうなメールを送つた。

【拝啓
春寒しだいに緩むころ、貴社におかれましてはますますご清祥のこととお慶び申し上げます。
さて、先般発生しました東北関東での地震津波災害及び原発事故により、現在日本国は未曾有の国難に直面しているものとの認識は、貴社におかれても共有されているものとご推察申し上げます。特に、畏くも 天皇陛下 におかれましては、直接国民に激励の御玉音を賜り、国民一同誰しもが大御心に感激を致した次第かと存じます。
そのような状況下、古来朝廷より二十二社として格別の崇敬を以って奉幣使の派遣を賜り、国難に際して格別の祈念祈願を事とされて来た貴社におきましても、国難排除、鎮護国家の祈願をされていることと思います。そこで、今回の国難に対し、貴社が通常の斎行とは別に、特に原発事故終結に向けた斎行を執り行ったかどうかをお知らせ戴きたく、失礼ながらメールにてお問い合わせを致す次第でございます。
小生は一介の一般人に過ぎませんが、ブログや個人誌等において些か情報を発信している者で、今回の調査の結果は何らかの形で公にすることも考えております。お手数ではございますが、何卒ご回答のほどよろしくお願い致します。
それでは、ご返事お待ち申し上げております。
敬具】

メールを送つたのはホームページに問合せフオームかアドレスの記載のある六社で、そのうち今日現在「大原野」「日吉」「石清水」「梅宮」の四社から返事を貰つた。
それぞれ丁寧な返事を戴いて感謝してゐるが、結果から言ふと復興祈願はしたものの特に原発事故のみに向けた祈願はしてゐないとのことであつた。さうした回答の中、梅宮神社からのメールに何となく気になる言ひ回しがあつた。と言ふのも、

原発事故に関してはあくまで震災の被害の一部であり、死者・不明者の捜索、被災者の一刻も早い生活の建て直し、街や住居の復興等と同列であり、それらすべてが速やかに収束していく事を願う、というの が当神社の見解ですので、特別に祭りを行う予定はございません。」

といふのである。どこか歯に物の詰まつたやうな言ひ様である。何故原発事故を切り離して考へないのであらうか。災ひを神の怒りの顕れと考へる意識がないのだらうか。未だ収束の糸口の見えない、今後の日本の社会経済に甚大な被害と変化をもたらすであらう原発事故、即ち放射性物質放射能の拡散を防ぐ努力の成就を、結局のところ原発が収まらない限り現実味を持たない街や住居の復興と「同列に」祈るといふ発想がわたしには理解しがたいのである。
しかし、この煮え切らない見解について、その理由の見当がつくのに大して時間はかからなかつた。
まず、「神社新報」といふ「神社界唯一の新聞」を標榜する新聞社のウエツブ版を見ると、三月十四日に神社本庁が全国の神社庁長宛に、「東北地方太平洋沖地震復興祈願祭」を斎行するやうに通知を出してゐたことがわかつた。祝詞例文や祭典の式次第まで通達されたやうである。そこで改めて神社本庁のホームページを見ると、お見舞文にも支援のメツセージの如きものにも(余談だが、神社新報神社本庁のホームページも、倶に此の飄眇亭日乗と同じく旧仮名遣ひで書かれてゐる。断つてをくがわたしは国粋主義者でも、神道を信奉する者でもないが、日本語の表記に関しては意見を同じくするもののやうである)、驚くべき事に原発事故に対する言及が一切ないのである。
なるほど、さうであつたか。各社の原発への沈黙は、「復興祈願祭」斎行の通知と同時に原発事故への言及を絶対に避けるやうにとの通達があつた結果としか思へない。少なくとも何らかの作為がなければ在り得ない徹底的な「原発無視」なのである。
上賀茂神社が唯一の例外といふことになるが、例の「放射能洩終息祈願祭」の日付を思ひ出してほしい。通知の出る三月十四日の前日の十三日に執り行はれてゐたのである。まさにフライング或いは「勇み足」として通達前にやつてしまつたといふことであらう。上賀茂神社は祭神が「雷」といふこともあり、自ら「電力会社」との浅からぬ縁を自覚してゐることもあつて、快挙と言つてよい祭事を行つたのである。あつぱれと言ふしかない。しかも、十三日の時点で「放射能洩」といふ言葉を使つた英断は賞賛に値する。
さて、神社本庁の通達があつたかも知れないといふことまではわかつたが、その先のつながりを概観してをかねばなるまい。まず、神道政治連盟、略称「神政連」は神社本庁の関連団体であり、皇室と日本文化を守り、靖国の英霊に対する国家儀礼の確立と憲法改正を目指す団体で、其処に属する神政連国会議員懇談会には自民党議員百三十名が参加してゐる。
自民党が戦後一貫して原発を推進して来たのは周知の事実であらうし、民主党の中にも推進派はゐるものの、今回の原発事故への民主党政権の対応の悪さを批判する権利は抑々自民党にはなく、我々は今回の事故の要因のひとつに自民党政権下の管理責任にあることを忘れてはならないのである。其の自民党議員と産業界の癒着は明らかであるから、「復興」のみを掲げる神社の「祈り」の在り方指導の出所は、かうして見てゆけば明白であらう。
わたし自身今までまるで知らずにゐたことも多いのだが、原発に少しも触れずに「復興」の旗を神社に振らせる事で少しでも世論を自分たちに有利に動かさうとする、権力権益を有する者たちの驚くべき策謀が存在してゐたとしか考へられない。恐るべし、恐るべし。神社で実際に祈りを捧げる人たちに罪はないかも知れないが、現在起つてゐる事態に対する認識のズレと、神や祈りについてのわたしの考へ方との違ひは覆ひ難い。
ところで、四月十一日には鎌倉鶴岡八幡宮において宗派宗旨を越えた「東北地方太平洋沖地震追善供養 復興祈願祭」なるものが行はれるといふ。名前は依然として復興祈願であり、其の告知には原発事故への言及があるものの、よく読むと、結局のところ「被災者」に向けた祈願であって、原発の事故を終結させるための祈りではないことが分かる。復興は祈れば叶へられるが、放射能は祈つても退散しないのだらうか。念のため其の案内文を下記に引く。

3月11日の東北地方太平洋沖地震は、我が国にとって正に未曾有の大災害となりました。多くの尊い命が失われた上、大津波、加えて原子力発電所の事故により避難を余儀なくされた被災者の方々は、現在数十万人にも及んでおり、日本は大変な国難に直面しています。かつて、鎌倉に幕府がおかれていた時代、国難に際して社寺がまとまり、乗り越えるための御祈願が執り行われておりました。いま、歴史を経てふたたび、神道、仏教、キリスト教の宗旨・宗派を超えて、鎌倉の宗教者が結集して合同祈願祭を執り行うことに致しました。この大地震のちょうど一年前、当宮の御神木、樹齢1000年の大銀杏が突然倒伏しました。大変悲しい出来事でしたが、日本全国からの励ましの声と共に、今は残された根元から多くの新芽が未来に向かって力強く成長を続けています。犠牲者を哀悼し、日常生活を奪われている被災者の皆様に思いを寄せ、鎌倉中の宗教者たちが心を一つに祈りを捧げ、被災地のみならず、日本中に「復興の芽」が力強く育つことを切に願っております。お時間の許す限りご参列下されば幸いです。

【日時】平成23年4月11日(月)午後2時30分より
【場所】鶴岡八幡宮 舞殿

わたしとしては、被災者への慰霊追悼や復興祈願も確かに大事であることは認めるが、今なすべきことは、何よりもまず原発事故終結への祈りではないかといふ主張を強調してをきたい。「祈り」の本質と、今我々が直面してゐる状況の認識については亦の機会に詳しく述べるつもりである。