京尺八

六月三日(日)晴後陰
九時前の新幹線にて新横浜から京都へ移動。地下鉄烏丸御池駅近くのホテルに荷物を預け、烏丸通りを北上し夷川通りを東に歩く。建具屋家具屋陶器屋などが並ぶ好きな通りである。寺町通りに近い処にある和次元滴屋といふ男着物の店に入り、店主と雑談の後石の飾りの入つた羽織紐を購ふ。銀座で買はうとすると二・三万はして、其処まで高価なものは無理だし必要もないと思つてゐたが、此処では安かつたので買ひ求めたものである。此の店の支店が嘗て六角橋にあり、其処で余は着物を買つたことがある。其れもあつて店主とは初めてながらあれこれ話し込んだ訳である。矢張り京都には着物を好む人は多いらしく、かなり斬新なデザインを取り入れる此の店も関東では難しくても京都では結構贔屓筋がゐるやうである。其の後御所の中に入り持参の弁当を食し、更に御所の中を突つ切る形で京都府民ホール「アルテイ」に到る。国際尺八フエステイバルin 京都の一環で開かれるマスターズ・コンサートの会場である。開演まで三十分近くあるが五千円を払つて中に入ると令先生が居られ挨拶を為す。一時より延々八時まで続くコンサートが始まる。
流石に現在における一流の演奏家を集めただけあつて、当然の事ながら皆さん良く吹く。但し、曲や奏法や音色には自ずから好みや好き嫌ひがあるから、退屈なものもあれば、此れは凄いと驚くものもある。余の場合都山流の曲は押し並べて面白みを感じられずに眠くなり、筝曲地唄の類はいくら上手い尺八でも吹いてゐて何が楽しいのかわからず退屈する。現代曲や実験風なものに至つては苦痛を感ずることが殆どだが、今回は幾つか良いものがあつた。特に福田蘭童作曲になる『渡津海鱗宮』は三管によるアンサンブル風で、聞いてゐて楽しい楽曲になつてゐたやうに思ふ。それに対し中村明一作曲のものを都山流の人が吹いたものなど三十年前に聞いた現代音楽風の焼き直しを改めて尺八で聞かされる気がして意味がわからず失笑。さうすると古典本曲しか残らないのだが、其れでも吹き方に俗気を感ずるものが少なくない。とは言へ、音量音質音程ともやはり一流の演奏家であることは間違ひなく、大いに勉強になり竹の音色を十分に堪能できたのは確かである。
五百人は入る会場がほぼ満席になつたのには驚いた。外国からの聴衆も多い。尺八音楽の素晴らしさが世界に広がつてゐると思ふと嬉しくもあるが、短めの管で高音を派手に華麗なテクニツクで吹き尺八の楽器としての可能性を追求する方向か、やたらに長い管で精神世界への導入の如くに自己陶酔的に吹くのを好む方向かの両極端に走る向きが少なからず見受けられる気がした。勿論それが悪いといふつもりはないが余の求める方向とは違ふといふことである。また、西洋人の尺八吹きには何故か長髪をポニーテールに結つてゐる人が多いのも面白い。ヒツピーと侍を結ぶ線の上に虚無僧尺八が入つたといふことであらうか。もつとも日本人はと言へば、会場では禿と白髪が半々で、年齢層の高さが窺はれる。
七時過ぎまだ演目は残るも、疲れたので会場を後にし歩いて三条通りまで下り、居酒屋風の店に一人で入り、ビールと軽い食事の後ホテルに戻り、サツカー日本代表の試合をテレビ中継で見る。其の後も久しぶりのテレビを見続けるが、改めてCMの多さと下らない番組の多さに呆れる。其れと映像が鮮明すぎて男優やキヤスターのアツプなど気持ち悪い感じがする。日常で接する人ではあんなに鮮明に皺や毛穴を見ることはない。テレビを見過ぎて其れに慣れるのも嫌なものである。当分テレビなしの生活は続きさうである。