茶事、新内とおでん

十月十九日(土)陰時々雨
此の日は着物にて出掛ける予定なるも天氣豫報頻りに雨を告げれば、迷つた末竟に洋服にて出づ。九時半町田の家人の實家に行き、まづ余が中置の点前で薄茶を点て、門人來りて稽古の間余は学会誌の原稿校正を為す。また、午前中呉服屋の越後屋さんが來て、先日大阪船場で購ひし柳条お召の反物を仕立てに出す。併せて持ち來たる仙臺平の反物を見るに良きものにて値段も格安なれば袴を誂へる事とす。お召に合せる羽織も註文し、さらに持ち來たる染めの反物の品よく奇麗なれば家人もそれにて袷を誂へる事となる。利息も取らず、ある時払ひといふ商ひなので、つい氣安く頼んでしまふのである。
晝前濃茶も稽古をした後皆で晝食を餐し、弐時半過ぎつくし野より家人と都内に向かふ。根津で降りるに驛のちらし置場に根津商店會まつりの案内あり。見れば近くの會館にて邦樂演奏會ちやうど始まりたる時間なれば急ぎ行くに、筝と尺八にて現代曲を演奏中也。其の後筝のソロ、尺八のソロなどあって、尺八郎なる吹き手は福田蘭童の曲を達者に吹く。先日蘭童が青木繁の息子であることを初めて知つたばかり丈に興味深く聞く。最後は吉崎克彦のクレツセントを演奏。割と樂しめたやうに思ふ。ふたりとも暗譜であつたから大したものである。
其れから根津神社の境内を抜け藪下通りから団子坂上、さらに北に進んで旧安田楠雄邸まで歩むも未だ門も開かざれば、止む無く須藤公園から不忍通りに降り喫茶店にて一茶を喫す。再び六時前安田邸に赴くにすでに開門されてゐる。新内岡本派、宮之助師匠等による新内演奏會の會場である。受付にて豫約した旨を告げ一人弐千伍百圓払つて中に入る。庭を背に舞台が置かれ、畳敷きの廣い客間は既に椅子席がほぼ埋まつてをり、最前列の座布団の敷かれた席のみ殘りたれば躊躇なく其処に座る。小振りな座布団二枚重ねなれば、胡坐であればさして苦しからず。
待つ事暫しにて二挺の三味線と倶に流しの趣向で宮之助師匠登場。口上に次いで蘭蝶をひとくさり語つた後、音曲停止の八時まで明烏后正夢の最後の段、それから文弥作品ふたつを演ず。遊女の侘しい末路を語つた「月夜の題目船」の、須�啗遊郭や月夜の描写の妙と死にゆく女の哀切さに痺れ、夢二の生涯を綴つた「竹久夢二」は様々な情景を思ひ浮かべながら堪能。矢張り新内は好い。特に、古典とともに新作があるので岡本派は面白い。自分で演る尺八は古典にしか興味はないが、浄瑠璃は古典ばかりだと肩が凝るので岡本派を贔屓にする訳である。文弥さんや平岡正明師匠との繋がり、好きな谷中と関はりも深いから、余計に親近感が強まるのである。演奏後の宮之助師匠の話に、岡本派は今年で文弥による再興から九十年に當る事を知る。記念すべき年ではあるが、派手なことをやらないのも好感が持てる。後十年すると百年となり、其の間宮之助師匠も円熟してゆくのであらうから、この先の十年折に触れて聴きに行き、十年の藝の軌跡を追ひかけたいものだと思ふ。もつとも、只時間が経てば百年を迎へられるといふものでないことは宮之助師匠も充分自覚してをられる様子。聞く者がなくなれば新内の存続自体が危ういのであるし、此れからが勝負の時であらう。余に財力が有れば相應の後援も出來やうが、今の自分には演奏會に駆けつけるくらゐがいい処である。稽古に通ふ事も考へてはゐたが五十肩が全治せぬ上時間的にも中々難しいので、後は新内の面白さを少しでも多くの人に知つて貰へるやう宣傳するくらゐしかできない。
會の終り際、最前列に座る余に宮之助師匠より会釈でお久しぶりでございますと言つて貰ふ。余が深々と辞儀をすると、何とブログを拝見しましたと言ひ添へて戴く。余は恐縮の余りありがたうございますとしか言へず。何にしても嬉しい事である。齢の近きこともあり、此の先の藝の深まりを見守りたいと切に思ふ次第也。
安田邸を出で三度須藤公園を通り不忍通りへ向かふ小路におでん屋を見つけ、急に寒くなつておでんが戀しくなり食べて行くことにする。入るとカウンターだけの小さな店で、下町のお婆さんらしい女性が切り盛りしてゐる。冷酒辛丹波でおでんを食す。そのうち、近所の客らしき若者と婆さんが世間話を始め、それに自然に加はる形で余と家人、それに左奥にゐた一人の客が會話を交すやうになつた。見ると、その人は最前新内の會で余等のすぐ横に座つてゐた人である。三十過ぎだらうが、會場では若い方で目立つてゐたから覚えてゐたのである。余が新内にゐらつした方ですよねと訊ね、さうだと答へるから勢ひ新内の話となり、いろいろ話すうち藝能関係や文學茶道にまでかなり詳しい事が分かり、話題が止まらなくなつて來た。文弥や正岡師匠の『新内的』の影響を受け、さらに廣澤虎造も聞くといふ、今時珍しい好青年である。しかも虎造が東京ステンシヨの時計を取り付けた事まで知つてゐる。これには驚いた。余は偶々先日吉川潮の『江戸つ子だつてねえ―浪曲師廣澤虎造一代記』を讀み了へたばかりだから知つてゐただけで、普通の人が知つてゐるなど思ひもよらぬ話である。夢野久作杉山茂丸から荷風正岡容までとにかく話が通じるし、裏千家茶道は十六の齢から二十五までやつてゐて茶の道の良さも嫌な処もよくご存じ。更に宮之助師匠が言及した洲崎を舞台にした映畫を川島雄三作と喝破した上、余が明治人の目を通した江戸の景色が好みだと言へば、川瀬巴水の名が出る辺り、近來稀に見る趣味の近さを感じさせる青年である。話は尽きないが月島に住む彼と違ひ遠來の身、止む無く歸途に就く事となり、せめてお近づきの印にと此のブログの名を書いて渡し、おでん屋を後にす。日暮里まで歩き京浜東北で戻り、歸宅深更に至るも充實した樂しい壱日であつた。