男性誌

十一月五日(土)晴
美学的施術と散髪に都内に出掛ける。池尻大橋から小洒落た店の並ぶ目黒川沿いを歩き恵比寿に出る。いつもの美容室でいつもの人に切って貰う。今回は白髪染をしたこともあって時間がかかり、その間目の前に置いて貰った男性誌を手に取った。ファッションと車、それに靴くらいまでは私も興味はあるので目を通す。ところが、時計とワインという、男性雑誌にありがちな記事になると、ウンザリと言うか、ああ、相変わらずこういうのが好きで蘊蓄語りたがる男って居るのね、という感じで吐き気を催す。いや、実際には自分には到底買えそうもない、三十万円以上するプラダのスーツやフェラガモの靴、ブガッティとアストンマーチンを扱う車の記事も、スノッブというかハイソというかIT成金趣味っぽくて嫌味な感じではあるのだが、それでもまあ、高いなりに良さそうなものを奇麗な写真で見る楽しみがなくはない。ところが、腕時計に関して私は全く関心がないので、なんでそんなに高い時計を欲しがるのか全く理解できないし、たいていの時計は見てもそれほど素晴らしいと思えないのである。世の中には高い時計を自慢げにしている男は多いが、そういう人を見る度に可哀想にと思う。いや、本当に金持ちで他の持ち物や服装に相応しい時計が結果的に高額であってもかまわないのだが、大抵は無理をして高いのを買い、だから余計に自慢したくなるのだろう。それがどんなにみっともないことか、気がついていないのは自分だけという点で、可哀想なのである。
ブガッティはそう簡単に買える人はいない。ローレックスだのパテックフィリップなどは、まあ頑張れば買えるかも知れない。しかし、普通に使える腕時計の百倍以上するのもざらではないというのは異常ではないか。ブガッティは200万の車の百倍ではあるが、これなど例外中の例外なのに、時計ではざらである。それに比べれば高いと言っても服や靴は手の届く範囲にある。三十万といっても普通のスーツの四倍程度であろう。靴も三十万ぐらいするのはよくあるが、これとてせいぜい普通の靴の十倍だ。だから、と言う訳ではないが、若い頃は私も結構服と靴には贅沢をした。貯金などという発想は全くなく、パリで身の程知らずの生活をしていたのである。会社に行くスーツはアルマーニかセルッティ、ラガーフェルドあたりで、カジュアルはヨージ・ヤマモトかコムデギャルソン、靴はA・テストーニかバリーあたりだった。従って、当時時計はカルティエをしていたが、それはまあ、釣り合いとかバランス上仕方がないことだった。そんなバブリーな生活は二度と出来ないししたいとも思わないから、スーツも(と言ってもあまり着ないが)靴も時計も、身の丈にあったものしか身につけない。そして、そんな今の方が、粋がっていた二十代の頃よりもよほど格好いいと思っているのである。