三十分

 体重が増えてどうにもならなくなり、減量のためひとつ手前の港南台駅から歩いて帰宅するようになった。少し上った後はずっと下りが続く道程なので、それほど苦ではない。だいたい三十分の距離である。本郷台の駅周辺は店も少なく賑わいもないが、港南台はそこそこ栄えていて飲食店なども多い。それに高台に連なる住宅街には結構広くて洒落た家が並んでいる。貧乏人と老人ばかりが住む本郷台とは大違いである。それでいて、歩いていて気づいたのだが、家が豪華な割に駐車場に停めてある車がそれほど高級車ではない。

 会社の給料がこの四月から二割少なくなった。減給である。このことは少なからず生活に影響を与える。今まで通りの生活をしていると貯金も出来ないし、月々赤字になる。老後を考えれば少しでも貯蓄に回したいのにそれも出来ないとなると、生活に不安ばかりを覚えるようになる。貧困とは言えないだろうが、楽な暮らしではないし、収支以上に、それまでの生活水準から暮らしぶりを落とすというのには落魄感が伴うものなのである。ダイエットと称して納豆ばかりを食べているが、それでも生活費が劇的に下がるというものでもない。それほど遊びに金を使いたいとか、高いものが欲しいと思っている訳ではないのに、日々の暮らしで不如意が続くと、すっかり気分がめげてしまう。

 今考えているのは、自動車を安いものに替えようかどうかということである。今乗っているのは、確かに分不相応な車かも知れない。ハイオクガソリンだし、何かと維持費も掛かる。それに第一あまり車を使うことがないのに、この九月には残額設定の相当な額を支払わねばならない。その半分の金額でも中古車ならそこそこの車が買える。残りの半分で、海外旅行にも行けるし洋服も好きなものが買えるだろう。ただ、今の車はスタイルも気に入っているし、力もあって運転していてストレスを感じない。運転は嫌いではないし、車に乗って出掛けることも今の車ならば実際楽しい。それに比べて、買い替えるとして得られる車は、スペックでは遥かに劣り、力もないし、単なる移動手段にしかならず、道を走っていてそれなりにストレスは感じるだろうと思う。とは言え、月に車を使う回数を考えれば、その分のお金で生活にゆとりを持たせた方が楽しい日々を送れるのではないかとも強く思う。車も服も旅行もすべてが思い通りには叶わないのであれば、どれかを我慢しなくてはならない。それなら車を諦めればいいのだが、古い時代に属する私のような人間は、車は道具と簡単に割り切れる訳でもないのである。

 車に掛かるお金を使えば、海外旅行にも行けるし服も今よりは買える。迷うことはなさそうなのだが、それでも決断がつかない。そして、そうした迷いのある状態こそが、金のないことの悲哀に思えて来て、何だか全身から力が抜けて行くような気になるのである。