日吉・石山巡礼

十月三十日(土)陰時々晴
心配された台風も近畿からは遠ざかり、終日傘を開く事もなし。七時過ぎホテルを出で京阪特急にて三条に出る。コインロッカーに荷物を預け、地下鉄、京阪経由で滋賀県の坂本に到る。坂本駅到着九時十五分過ぎ。駅近くの観光案内所に立ち寄り、観光地図を貰ひ見所を聞く。比叡山から琵琶湖に向つて傾斜をなし、西に行く程眺望が開ける地形也。駅から日吉大社まで寺・里坊など古い伽藍の犇く門前町の町並みは落ち着いた佇まいにて好ましき雰囲気也。ゆつくりと其の中を散策し、まず旧竹林院庭園を訪れる。旧の字が付くのは、叡山から引退した高僧が里に営む里坊と呼ばれるものだつたのが今は天台宗から離れた故ならむ。折りしも母屋にて盆栽展が開かれてをり、他に客もなければ出展せる地元の好事家と暫し盆栽談義を為す。許より余に盆栽の趣味はないが水石には心惹かれ、又華道を為すうち次第に盆栽、盆景、盆石に興味を持ち始めたることは事実也。今日果たして此れ等の区別のつく者がどれ程有るか心許なしと雖も、是もまた日本の文化の一端を為すものには違ひなきもの也。話に聞けばひとつの盆栽を育てるのに三十年の歳月を掛ける事も珍しからずと言ふ。地元に在住せし此の老翁は自宅に四百余りの盆栽を持つとの事。孰れにしても到底余の手に負へるものにはあらざれども、苦心談やら面白みなどの話を聞くうち今まで以上に興味を覚えたるは確かなり。最近は松の佳き姿に心惹かれる事も多く、展示の盆栽の佳品幾つかをカメラに収める。抹茶を喫して庭を眺め、更に庭に出て周遊す。紅葉には早いものの、池泉・石組みの造作、茶室の結構倶に面白く見る。



【竹林院庭園】

続いてすぐ隣の日吉大社に往く。抑々今回の滋賀探訪を思ひ立ちたるは幕末明治の廃仏毀釈の際神官の暴挙により仏像・仏具を破壊されたる同社を一度見てみたいといふ理由也。長らく比叡山の僧侶の事実上の支配下にあつた神官が積年の恨みを晴らすかの如くに、時流に乗つて狼藉を極めた事件は、陰惨なる廃仏毀釈の歴史の中でも其の破壊規模と狂信さにより特筆すべきものなり。東本宮より順に巡り西本宮に至る。両本宮本殿とも信長の比叡山焼き討ちにより消亡せしものを秀吉が建直したものにて国宝。西本宮にて日吉大社の神札を購ふ。楼門を出た処に茶店があり、其処に丁度袴を着けた巫女らしき女性が居たので、廃仏毀釈の折仏像仏具を引出し集めて破壊した場所を問ふに、暫し待たれと社務所に往き、焼討ち前の境内図(宮曼荼羅の類)の描かれたるクリアファイルを持参し其れを示す。現在の配置はかなり元の姿に近き事を知るも、狼藉の場については現在神職に在る者に聞いても審らかならずと言ふ。また、現在では比叡山との関係も悪くなく、共同での祭事もありと聞く。さらに神仏分離天台宗と切り離された為に実際は其の後長らく経済的にはかなり苦しかつたやうである。若い巫女さんながら、こちらが問へばそんなことを色々話してくれ有意義であつた。厚くお礼を陳べ全国数千の山王さんの本家を後にす。廃仏毀釈の一件で敵意すら感じてゐたものが、此の訪問にて一気に日吉大社への親近感深まる。
其の後徒歩日吉東照宮を参拝し、更に滋賀院門跡を訪ねるに及んで、天台宗の本庁が現在は叡山でなく此処坂本に在る事、元々此の町は叡山の老僧の里坊が多く、天海との関係も深い事などを知る。滋賀院門跡では参拝客も他になかつたせゐもあるが、受付の係の人が歴史や文物について懇切丁寧に説明してくれ、琵琶湖を望む眺めや庭とともにゆつくりと見物を楽しむ事を得た。京に比べて人の少ないこともあるが、坂本は石垣の美しい実にしつとりと落ちついた好ましい町であつた。


【滋賀院門跡からの眺め】

駅の近くの老舗の蕎麦屋鶴喜で昼食の後再び京阪電鉄石山坂本線に乗り始発坂本から終点石山寺に着き、徒歩石山寺に往く。古典文学、特に女流の日記などに頻出する石山寺参籠を知つて以来此方もまた長い間訪ねたいと思ひながら果たせずにゐた寺である。又、先日の応挙展でも唐橋の景色とともに石山寺が描かれてをり、憧れが高まつてゐた。
山門を潜つて入つた雰囲気も悪くない。左右の塔頭の未公開の庭も門から見えるだけでも風情を感じる。そして最初の階段を上つた先の、石山の名の元となつたと思はれる剥き出しの硅灰石と其の上に見える国宝多宝塔の優美な姿が絶妙なコントラストを為し、何やらずつと前から此の場所を知つてゐたやうな気になつて来るから不思議である。同じく国宝の本堂を経て、絵画で知られた唐橋と瀬田川を望む月見亭に至り、さらに少し登つた先の豊浄殿にて紫式部関連の展示を見る。抑々紫式部石山寺の関係は深く、本堂には式部が須磨・明石の巻の想を得たといふ紫式部の間があり、盛んに紫式部との縁を売物にしてゐるやうだ。其れからさらに新しく建てられた光堂まで足を伸ばす。此れはこの近くに研究所などのある東レが寄贈したものとのことで、丁度西陣織の展示をしてゐて中に入ると他に客はなく、番人の人と紅葉のことやら西陣織のことなど暫し話しこむ。今日は行く先々で色々な人と話す機会の多い一日である。ほぼ境内を隈なく一巡した後石山寺を後にし、再び電車で唐橋に至る。改札で幻住庵への行き方を聞くと親切に教へてくれるが歩きだと大分時間が掛りさうなので今回は諦め、唐橋と建部大社に行く。


【唐橋からの眺め】

再び京阪で浜大津経由で三条に戻り、荷物を取り出して地下鉄で二条に行き、早目の夕餉を取つた後花園経由妙心寺に至る。大衆禅堂に入り土日坐禅会に参加。三度目である。