依怙地の一徹

 こどもの頃から依怙地で損ばかりしてゐる。三歳で民宿の二階から階段を転がり落ちたのを宿の人が上手く抱き取つて呉れたのが氣に入らず、直ぐに階段を昇つて落ち直して大人たちを唖然とさせたといふ。五歳になつて錢湯の歸りに夜店で賈つて貰つたおでんのつみれを落としたのを悔しがつて、親が新しいのを賈つてやると言ふのも聞かず、落ちたのを食べると言ひはつたりと、依怙地で強情な性格は其の頃から變はらぬもののやうである。

 先日も池尻大橋から中目黒まで歩けと言はれて嫌だと言つたら、少しでも電車賃を浮かす爲に自分は努力してゐるのにと家内が愚痴を言ふのに腹を立て、其れならと定期のある蒲田まで十二キロを三時間掛けて歩いたばかりである。

 其の時、わたしが家に歸ると家内が呆れて、誰の得にもならない事を態々やる意味が分からないと言ふ。確かに、腹を立てた相手に何ら損を與へず、自分ばかりが損をした勘定になる。依怙地とは、要するに自分の向かつ腹や不機嫌な氣分によつて、誰の得にもならず自分が損するのを承知で、あてつけがましく極端な事を極端にすることなのではないかとはたと氣づいた。考へれば自分はそんな事ばかりして生きて來た譯で、似たやうな出來事が次々と思ひ出される。自分の此のくだらない人生をくだらなくして來た要因のひとつが、此の依怙地さにあつたことを、漸くにして理解したのである。

 元来捻くれていじけた性格ではあるが、此の依怙地さといふのは特に性質が惡い。信念を貫くとか、振れのない生き方といふのとは全く異なり、只意地になつて他人の意見や好意を受け入れず、人に嫌な氣持ちをさせる爲に自分が労苦や損を引き受けるだけのことで、其の一念さが一徹な丈で、決して誇れるやうなものではない。それでゐて、いつもかうした行動に走るには、それなりの譯といふか、心理的な機制があるやうにも思はれる。自分なりに熟々考へるに、恐らくかういふ事なのではないか。つまり、自分の不愉快で著しく害された感情に比べると、實際の不如意や不愉快な出來事が些細なことに思へて何とも兩者が釣り合はず、其の事が更に自分の小ささを批難されてゐるやうな氣になるので、より損な事をしたり悲惨な状況に追い込んだりすることで、どうにか精神や心のバランスを取らうとしてゐるのではないか。腹立たしさを膨張させることで、最初の出來事が些末なことであることを忘れ、かくも悲惨な目に遭つてゐるのだから、此れ程不機嫌になつてもおかしくはないと自分に言ひ譯したいのだと言ひ替へてもいい。歯が痛む時に頬を思ひ切り撲つて貰つて、其の痛みで歯痛を消すやうなものである。かうした生き方をしてゐる限り、自分も周りの人間も、決して幸せにならないのは目に見えてゐるのだが、生まれつきなので仕方がない。つくづく、損な性分に生まれついたものだと嘆くのみである。